十二要地高射砲

 作戦は終了した。昭和二十年三月から私達は、大阪陸軍工廠の第七工場に廻され「十二要地高射砲」の部品を作ることとなる。
 十二とは、一万二千メートルの上空まで砲弾を届かせるの意と教えられた。アメリカの飛行機には一万メートルの上空から突如、蜂の如くわんさかと攻めて来る。が、情けないことに、日本の高射砲弾は絶対に届いたことが無い。空襲の度に私達は口惜しがっていた。
 ところが遂に、敵機を落とせる高射砲に改良出来たようだ。そしてこれを、重要な地に据えて敵機を撃墜するという。私らはどうも新兵器に御縁があるようだ。
 第七工場は兵隊も働いていた。大阪外語専門学校生や、山口師範の男子学生など男が多かったので、何だか私たちも兵士の卵みたいな気持ちがした。今度は紙と糊ではなく、鉄であるから余計にそう思ったのかもしれない。
 面倒を見て下さったのは、まだ若い副工場長の井上賰大尉で、造兵廠が壊滅した八月十四日を生きのびて下さったのかどうか。
 私達は先ず旋盤を習うのであるがこれが大変で、もう材料の鉄棒が不足していた頃だから、不合格品を作ってはならない。機械の油も不足している、不足過ぎて旋盤が焼けつきそうな音を出し驚いたこともあった。。
 私は一センチ五ミリの螺子作りで苦心したが、級友たちもそれぞれ苦労していた。昼御飯に顔を合わせるのを楽しみとして、あとの時間は真剣に働いていた。毎晩の空襲で起こされる寝不足に耐え、食糧不足の空き腹に耐え製作した高射砲が、いざ淀川べりの陣地に据え付けてみると、敵機は真っ先に其処を爆撃し壊滅させたと後日聞いた。
 十二要地高射砲の若い砲手らは、超高空からの爆撃機急降下攻撃に、照準を合わせる暇も無く、やられてしまったのかと思うと可哀相でならなかった。私は自分が危ない事よりも、兵として高射砲を離れて逃げ出すことは出来ぬ砲手らの、無惨な死を悲しんだ。

 戦争とは人が人を殺すことだ
 人が狂気になって殺し合うことだ
 そんな中に正義の有りようが無い!

 然し、大昔から人は戦って生きのびて来たのも真実で、平和とは戦うよりも至難である。