私たちが2000年を迎えたとき、私は、「この21世紀という時代は、人類が生存し続けることそれ自体が困難な、過酷な100年となるであろう」と書きました。
だからと言って私は、「絶望的になるのでも、悲観するのでも、まして刹那的に投げやりになるのでもない」とも書きながら、「生物種のひとつの種にすぎない、人類が獲得した最大の財産である『叡智』の出番の時の到来」であり、「生物本来の野生に回帰すること、野生の回復こそが、この過酷な時代を乗り超えていく鍵であるにちがいない」と書きました。

20世紀に頂点を迎えた、「都市と工業の文明」は、ひたすら「野生の克服」を目指しました。
そして、人類が野生であることの結晶としての「叡智」が、ひとつひとつ形をなした「文化」をも、破壊しつくし、消滅させてきました。
20世紀文明にとっては、人類の野生の結晶体である文化が、まるで対立して相容れない反対概念のように思えたのかもしれません。
人類が、長い時間をかけて、まるで樹木が土に還るくらいの速さで培ってきた文化を、自分たちにも備わっていたはずの野性と共に、捨て去ろうと努力してきました。
人類が、それを意図したとは思いません。
予測していたとも思いません。
20世紀文明の基底にある本来的な欲望が、ヒトの身体能力とは、何の関係も持てない20世紀文明の、人工のハイスピードが、当然の帰結として結果させてきたことでした。
野生や叡智や文化を喪失させることさえ、私たちの肉体が、皮膚感覚が機能しえず、感得しえなかったのだと、私は考えています。

私は今、20世紀「都市と工業の文明」に、何か新しい「文明概念」を対置しようとは思いません。
文明は、基本的に、前の文明の継承的発展型として、前の文明では使われることのなかった、素材や物質や、生産様式や生産形態など
の登場によって、さらなる進化を遂げるものと考えられています。
文明史で言えば、現代はまだ、20世紀文明の真っ只中にあると言っていいでしょう。
まだまだ、それを発展させようとしています。
新しい文明を対置するには、まだ人類は、準備が不足しています。
そしてもっと大事なことは、新しい文明を準備するための「叡智」や「文化」を、どこかにやってしまいました。
今の時代の、社会的停滞は、実は、文明の衰えから発していると言うよりは、野生、叡智、文化の喪失から発していると、私は考えています。
どんなに人類が偉そうに振舞っても、所詮、1時間に4km歩くだけの身体能力しか持ちえていないことに、私たちはもっと、注意を払わなくてはなりません。

私は今、21世紀を生き抜くために、生存を確保するために、「野生と文化の回復」を対置します。
野生とは、何よりもまず、身体です。身体能力です。へこたれない身体と精神です。

次に、生存能力です。ここでは「智恵」が、ものを言います。

智恵を発揮する環境が、必要です。

食べるもの、雨露を防ぐもの、寒さをしのぐもの、何もかもが身体と、智恵と、それを可能にする環境です。

世界を覆いつくしている「世界市場経済」も、「都市と工業の文明」も、終焉のときを迎えようとしています。

私たちはまだ何も、準備できていません。

しかし私は、人類が本来の、野生を回復し、叡智を取り戻し、文化を再生しようとする過程こそが、今まで人類が知りえないような文明の形を見出すのではないか、そしてそれは、自分たちが獲得した、人智を超えた生産様式や生産能力や、そして何よりも限界のない欲望を、「敢えて、抑制し制御する」、新たな叡智によってではないか、と考えています。

今私は、川の源流でもあり、野生と文化の回復の源流でもある、山村の住民として、都市の市民と連携して、何ができるかを想う毎日です。

この文章を読んでくださる多くの同道者の皆さんといっしょに、共に汗を流し、考え、話し、また身体を動かし、その肉体を通して感得したものを、少しずつ「言葉」に高めたいと思います。

その昔、疾風怒濤の時代と呼んでいた年代がありました、今はもはや形容する言葉もなく疲弊していて、とても疾風怒濤とは言いにくいのですが、波乱万丈であることは確かです。

時に激論を戦わしながら、新しい時代を模索しましょう。

まだまだ死ねない、疲弊と混乱の責任を負う者たちです、私たちは。

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