敗戦六十年後のいま

 昨今、「太平洋戦争」前夜に似て、石油問題が騒々しいなあと気ずいた時、私は突如として「油の一滴は血の一滴」という標語を思い出した。
 声も立てずに学生達が、夜も昼も働いていた大阪陸軍造兵廠が目に浮かぶ。あの頃はこの日本のどこかの街が爆撃されていた、どこかで誰かが殺されていた、家が焼かれていた。あの太平洋戦争開戦には何の責任も無い子供たちが、国家の危急存亡の刻を真摯に生きた日々の一端を書いておく。

大阪陸軍造兵廠赤川第四宿舎
 昭和十八年九月に「一億総動員令」が出て文化系学生の徴兵猶予が廃止され、十月二十一日明治神宮外苑で大雨の中、東京帝大以下七十七校の出陣学徒の閲兵分列行進が決行された。彼らは頭からずぶ濡れで、学生服の肩に剣付き銃を担ぎ地鳴りの如く行進した。
 戦地に赴いた此の学生の中で幾人が生きて日本に還ったのであろうか。
 昭和十九年には学徒動員が通年となり、この年の動員計画は二百五万三千人の割当要求があったという。
 十一月一日には敵国アメリカの「B29爆撃機」が東京上空に現れ偵察している。
 長野県松代に此の十一月から「地下大本営」を作るトンネル工事が始まっている。
 もうその頃は、北の辺境アッツ島守備隊全滅・南のサイパン島全滅・あの有名な山本五十六大将戦死で、今さら女学生を動員しても此の戦に勝ち目はあるものかと、心ある大人達は分かっていただろうが、道路の舗装を三分の一剥がし、そこに甘藷を植えたりの作業などをしていた少女の私達は、まるで維新の会津白虎隊にでもなったつもりで、白鉢巻きを締め松山城下を出発した。
 昭和十九年十一月五日、私は十四歳であった。
 学徒動員された愛媛県立松山城北高等女学校三年生の私達百七十名は、大阪市旭区赤川町六丁目、赤いポストの真ん前の、電車通りに建つ大阪陸軍造兵廠赤川第四宿舎に住み込んだ。
 引率教師二名は交代制で、松山の城北高女から、一ヶ月毎に二名来て下さったかと思う。
 三人一組、各室一間の押入付四帖半で、窓際に文机が三つ並んでいたので、毎夜三人分の布団を敷くことに工夫が要った。
 毎朝押入の片側の上下に布団を積み上げるのに苦労した。先生の室内検査が抜き打ちなので、切餅の如くきちんと積みたいのに椅子が無い。三人とも小さい私達の部屋の難儀であったが後日、隣室からの応援で解決した。毎朝これが嬉しかった。
 押入のもう一方の側の上下に三人分の私物を収納する。美しく整頓する為にこれも知恵が要った。毎日の必需品を全面に置く。奇麗に置く、畳の上には一品も出しては不可、突嗟に逃げ出す時に、踏んだりすると危険だからである。夜中の空襲は当然想定内にあった。
 毎朝が静かな戦場であった。午前四時二十三分当番生徒が早足で「起床ッ」と声を掛けて行く。途端に全員跳び起き布団を上げる、箒で四帖半を掃く、机に雑巾を掛ける、その隙に交替で洗面トイレ着替え結髪と、起床からのすべてを三分間で終了し、廊下に整列「一、二、三」と各室点呼、直ちに食堂へ急行し、食後の休憩も無く、市内電車の運行前に生徒を運ぶ為、午前五時外で待ち構えている電車に跳び乗った。当時一分間は使いでがあると思った(今は欠伸さえ一分掛かりそうだ)。
 これは先生の温情であった。毎夜の如く防空壕へ避難し寝不足の私達を、一分でも余計に眠らせたい御気持ちと、敵襲の中を機敏に逃げる感覚を養う為とであると私は思っていた。だから一名も死なず戦後を迎えることが出来たのを、先生方に御礼申し上げたい。
 その年大阪の冬は格別寒かった。宿舎の暖房は玄関の大火鉢一つ、手を焙っているうちに膝の寒さで震えてくるという按配だった。
 今と違って軽く暖かい下着が無く、重ね着をすると身が重く動きまわるには好都合で、寒さは堪えるものと思っていた。
 ある頃から、誰もが「痒い痒い」と言い出して或る休日の昼、皆で下着を脱いで調べてみると、縫目にびっしりと何か付いている。これ何じゃろ「これが痒いんかいな」そう、それが痒さの元凶シラミの卵でした。
 取っても取ってもシラミは減らず、痒さに泣き出したいくらい閉口していると、女教師が松山から来て下さり、全員のセーターを煮沸して下さって一応安堵した。然し全滅とはゆかず、一部屋三人とも下着姿で真剣にシラミ退治の日もあったが、それはそれでお喋りをしながら楽しんだ。入浴は週二回で、燃料の無いあの当時としては仕方がないことで、困ったのは洗剤が無く手に入る石鹸は、コンクリートの欠けらの如く固くて、汚れは一寸も落ちなかった。
 学徒動員一人の報酬一ヶ月四十円、授業料と奉国会費等を差引き私らに十円渡された。ところが何も買う物が無い。日曜日に数人で「そごうデパート」に行ってみたが、人気の無い店内はガラ空き、なんとたった一つきりの陳列台に「梅干丸」がある。天下の大阪「そごうデパート」にこの黒い罌粟粒のような梅干丸しかない、これが戦時の日本の実状であった。巳んぬる哉。
 そこでびっくりする光景を見た。長い長い行列がある、先頭へ行ってみると、大鍋を七輪にのせて水のように薄いお粥を売っていた。丼一杯十円だったと思う、私達の頂く一ヶ月分だった。その丼を一切洗わないで、一つの丼で次ぎ次ぎとお粥を啜る。見れば洗い水のバケツも置いていない。
 私の目の前で立派な紳士が丼のお粥を受けとった「この人も洗わぬ丼でお食べなさるのか」と見るともなく見ていると、白いハンカチですっと丼の縁を拭き口をつけた。その人も情けないであろう、私はこの惨めな日本の姿が何ともうら悲しかった。
 私達は粗末な食事ながらも、三食保証された動員学徒であることを有難いと思った。
 宿舎の前には赤いポストが立っていて、私達の朝夕の出入りを見つめている。まるで母親のようで、それを見て心が安らいだ。
 葉書は三銭で買えた、でも勝手にポストへ投函できない。西谷寮長の検閲を受け「検閲済」の印をもらってから出すことが出来る。戦時とはこういう事である、敵国にはつつ抜けの秘密でも国民は厳重に守らされるのだ。
 赤川第四宿舎時代は、あの赤いポストの残像に尽きる。