真っ赤な八月

 八月はタイムスリップ、私にとっては、激辛三十倍カレーを頬張ったくらい、心の奥が滾ってくる。
 戦後五十数年ともなると、戦争を体験した連中が減少し、野戦も餓死も空襲もあの原爆さえ風化し、どんどん忘れられてゆく。これで良いのか。
 負けたからとて卑屈にならず、七十歳八十歳の人たちよ、生きのびる為に戦わねばならなかった、あの頃の時勢を述べたらどうか。自分の主張を押しまくる外人の執念を見よ。戦とは、敵も味方にも如何に悲惨なものかを、しっかり語って欲しい。あの時、苦しみながら死んでいった、たくさんの人への鎮魂の為にも。
 あの時、大人も子供も一丸となって、真剣に生きた証があるはずだから、日本の誇りと気概の為にも、黙っているのは卑怯に似ている。足許を堅めなくては、世界の平和に寄与するなんて、とてもとても浮いているというような気持で、扨、あの時、当時の俳人達は終戦をどう受け止めたのかを知りたくて、手持ちの句集を調べてみた。
 戦時中には、俳句の先生方も一応、それらしく俳句しただろうし、戦後になって、その間のことは問われたくない部分もあったりで、年月がたつと選句集の中に入れない句もあるだろう。
 戦の最中に教育を受けつつ成長していた頃の私と、既に立派な社会人であった人たちとの、心のひらきは大きい。でも同時代に生きたのであるからと大いに興味をもって、あの本此の本と、ひっくり返してみた。
 先ず、虚子大人は如何なものか。戦時中、求められれば即、軍国主義に賛同の俳句をものしている。文章も書いたようで、文学報国会の俳句部会長をつとめている。終戦直後、朝日新聞に応需して、
    秋蟬も泣き蓑虫泣くのみぞ
    敵といふもの今は無し秋の月
    黎明を思ひ軒端の秋簾
の句がある。七十翁は、信州小諸の俳小屋で悠々自適の態。虚子には、敗戦の虚脱とか、苦い反省とかは無かったであろう。殆どを、自分のしたいように生きてきたのだから。彼は、何よりも自分を、そして自分の範疇を大切に守り抜いて、努力が実った幸運者である。
 荻原井泉水は、終戦の詔勅を、草とりをしていた時に知らされたという。で、句もありのままとなった。
    日はなくて明るくて草取っている此の時
    げに山河あり雲をいでて月の清さなり
    星それぞれ秋の座にあり戦終り
 石田波郷は、戦地で胸膜炎を病んで帰還し、療養中であった。次の三句は、終戦の翌年のものである。
    はこべらや焦土のいろの雀ども
    グノー聴け霜の馬糞を拾ひつつ
    忰みて瞑りて皇居過ぎいしか
 富安風生は終戦後のある日と付けて、
    かかる日のまためぐり来て野菊晴
    露の宿掃き出す塵もなかりけり
    掌にのせて子猫の品定め
この時、まだ六十歳。随分と穏やかな人らしく思える。長命なのも納得できる。
 大野林火は、焼亡した横浜の夜景を詠んだ。
    冬雁に水を打ったるごとき夜空
    焼跡にかりがねの空懸かりけり
    こころひもじき月日の中に桐咲きぬ
昭和二十三年、句集「冬雁」を刊行し、巻頭に、冬雁の句をのせたという。この頃に、主宰誌「浜」を創刊した。
 加藤秋邨は、真っ向から詠む
    明易き欅にしるす生死かな
    雲の峰八方焦土とはなりぬ
    飢せまる日もかぎりなき帰燕かな
    死ねば野分生きてゐしかば争へり
    凩や焦土の金庫吹き鳴らす
    昆虫のねむりて死顔かくありたし
 平畑静塔は、新興俳句運動に挺身し、昭和十五年に検挙されている。京大俳句の中心的存在で、理論家として啓蒙したとある。出征中に敗戦となって次の句がある。この句は当時を知る私には印象深い。
    徐々に徐々に月下の俘虜として進む
翌年に帰還して、三年程は教育者であったが、その後は精神科医として、終生、病者を暖かくみまもる姿は立派であり、句にも其の心が深い。
 日野草城は、正直な人かもしれない。
    二上山を瞻ておりいくさ果てしなり
この句の前書に「昭和二十八年八月十五日、天皇放送により終戦を宣し給ふ。われら既に尠からぬ蔵書をはじめ家財の殆どすべてを兵燹に失ひ、流寓六句、居を移すこと五度に及ぶ。時に河内の奥二上山の麓、磯長村春日といへる草深きところに隠れ栖めりき」と。
 なにか誰かに、口を尖んがらかして怒っているようで、その頃、同じ目にあって難儀した覚えのある私は、つい笑ってしまった。草城先生、命があったのが、もっけの幸いでしょう。
 滝井耕作は、
     洞然と大戦了り赤蜻蛉
     ジイプゆくさがみケ原よ枯れし色
 西島麦南は東京を詠んで、その生命力を、
     秋もはや焦土の露に貝割菜
 栗林一石路は、信州で開墾中に終戦を知り、
     たたかいはおわりぬしんと夏の山
 中村草田男は、子を愛しぬき
     焼跡に遺る三和土や手毬つく
 安住敦は終戦の年に召集され、千葉県で本土決戦に備え対戦車攻撃の訓練を受けていたという。それこそ命びろいをしたのである。その心境をよんで、
     てんと虫一兵われの死なざりし   となったのであろう。
     雁啼くやひとつ机に兄いもと
     しぐるるや駅に西口東口
     また職をさがさねばならず鳥ぐもり
     鳥わたる終生ひとに使われむ
と戦後の生活の苦しさを詠んでいる。
 富沢赤黄男は、私の好む赤と黄を名前にしている。調べてみると愛媛県人である。矢っ張りナと変なところで納得。
     あわれこの瓦礫の都冬の虹
     大露に腹割っ切りしをとこかな
     国の阿呆ただ燎乱と雪雫
     羽がふる春の半島羽がふる
この最後の一句は、戦後の解放感に溢れている。
私も思い出す、敗戦時に割腹した若き将校を。
 秋元不死男は、もと東京三の筆名で、新興俳句運動に活躍していたが、昭和十六年、弾圧されて二年間というもの、酷寒酷暑の拘置所ぐらしを体験した。
 その時、
     降る雪に胸飾られて捕えらる
     冬に負けじ割りてはくらふ獄の飯
などと己の尊厳を守る潔い句をたくさん作っている。終戦後は、秋元不死男として再出発した。
     鳥わたるこきこきこきと罐切れば
     明日ありやあり外套のボロちぎる
     冷やされて牛の貫録しづかなり
     つばくろや人が笛吹く生くるため
 松根東洋城、松山中学在学中に夏目漱石に師事。明治四十一年には虚子に代り、国民俳壇を担当したという。大正四年、渋柿を創刊している。
 故郷、宇和島の邸宅を戦火で失い、浅間山の宿で終戦を聞く。日本の敗戦により、彼は、その悲痛な心境を「敗衄」と題し、二十句発表した。
 彼は、京大卒業後から大正八年迄、宮内省に勤めている。
     冬厳しく死厳しいいくさいくさかな
     秋風や山を喰うて継ぐ命
     カナカナや世のはて人の行く末も
     稲妻や催け天柱折れ地軸
     秋雨の限涙の限かな
     皇土はつかに存すと虫の鳴き入りぬ
     泣き入るや史読み断ちて灯夜長
     さめざめと仏泣き居つ瓜の馬
     さみしさは国の末見る芒かな
     秋風やうつろをいへば国と我
昭和二十四年に、浅間の仮寓から、東京に移り住むまで、一切の面会を断って、七十歳近い身で自炊の籠山生活であったという。「心境俳句こそ真の俳句なり」と心得ていたという東洋城はそんな苦労の後も、長命であった。