八月そして六日

 南国の太陽は早起きで、その日も、朝からヂャイヂャイと照りつけた。
 この私は、およそ女学生とは見えぬモンペ姿。当時は、制服着用を許されず、血液型と氏名を書いた、小さな白布を胸に縫い付け、通学していた。
 何処で死のうと、せめて無縁仏にはならぬようにとの配慮かと思いたくなる。
 ところで、今朝は人影が無い。この町に、私ひとりが居るみたいだ。友人らはどうしたのか、それとも、私が遅刻しているのやら、などと思いに耽りながら肩を落として歩く。電車は、空襲で燃えてしまったので、学校は、つくづく遠かった。とはいっても、乗車するのは校則違反であったが。
-私達は、つい此の間迄、学徒動員令により、大阪陸軍工廠に配属されて、毎朝、四時二十三分には起こされ、三分間で布団上げ・部屋の掃除・洗面・着替えして、廊下に整列。点呼、内務班検査を受け、直ちに朝食、午前五時には寮舎前に停車する、私ら学生の為だけに仕立てられた電車に乗り込み、通勤していたと思う。勿論、兵器づくりの為である。何しろ、目まぐるしい生活で、一分間とは随分使いでが有るナアと思っていた。死と隣り合わせの緊張感は、若い時に体験しておくものである。
 然し、連日連夜、米軍の無差別空襲で、もう死ぬことなどはどうでも良いから、ただ眠りたいと思う惨々の態たらくで私らは、空襲の最中に押入にかくれて寝たものだ。曽我静雄先生の強引な交渉のお陰で、帰松できたと喜んだのも束の間、その昭和二十年七月の末、あの、暢びやかで美しかった城下町、松山は、米国爆撃機の編隊により、一夜で焦土の廃墟にされてしまった。
 市街の外側から焼夷弾をジャカスカ落として、火を内側へと追い込む作戦であったから、街の中心部に住んでいた人らが、火焰を潜り、運よく周囲の田園地帯まで逃げきるのは、必死の形相であった。
 そんな、こんなで大阪以来、死への恐怖は無くしていたが-八月、そして六日の朝。生きている只今の、この暑さが堪らんナアと、煎り大豆のような汗を振りまき振りこぼし、焼土化した町を、とぼとぼ歩けば樹木は焼けぼっくいとなって片陰も無い。
 目ざすは、これも瓦礫となった学校で、それを片付けに行くのである。
 配線直前の私たちには、もう勤労作業に励むべき軍需工場さえ無かった。
 街じゅうの生き残りが、ひもじい腹を垂らして、望みの無い戦況への関心も薄れ、半年前迄の「撃ちてし止まむ」の気概は消し飛んでいる。何しろ此処には人の姿が無い、死に絶えたかと錯覚しそうである。
 私は、焦げついてくる夏の日射しをよけるすべもなく、松山城のお濠端を半周する格好で歩きつつ、ひそかに、ひそかに思った。
 此の戦争に敗けたらどうなるのやろ、蛸の足の如く外国へ放出されている兵隊さんらは、果して、生きて日本に還れるじゃろか。それより明日にも此処へ米軍が上陸して来たら、在郷軍人に怒鳴られながら練習してきた竹槍なんか、千本突き出しても無駄と思う。この戦争をやめる手段はないものか。オヤ、この上天気に何処かで一音、雷なのか。顔を上げて、ぐるりと天空を見まわしてみたが、涯のはて迄晴れている。
 その時、アッと目がくらみ、のけ反った。自分のまわりの物体が消しとんで煌く白銀の世界である。キラキラ純白にまがう程の銀の球体に、閉じ込められてしまったような。まぶしくてまぶしくて目が痛い何も見えない。ナンダナンダこれは、初めての体験なので理解できないが、途惑う時間はあった。うふうっと一呼吸して、元の世界が戻った。オヤ、私の体は何ともない、まわりを一瞥してみたが、それらにも変化無し。
 これが、瀬戸内海をへだてた対岸の広島の人間たちに、世界最初、残酷・無惨な原爆が落とされた瞬間であった。