おあむ様物語を読むと、一六〇〇年代の暮らしが窺われる。おあむの父は、大垣石田光成の家来で三百石とりの武士である。真逆の時の用意の貯えは有っても、平常の朝夕は雑炊で食事は一日二度きりであったという。
 おあむの兄が鉄砲を撃ちに山へ出かける日だけ、野菜を切り込んで炊く「かて飯」であった。そのかて飯のお相伴にあずかるのが、おあむの楽しみ。そこで、おあむは兄に鉄砲撃ちに行ってくれるようにと、たびたびせがんだという。
 また、おあむには衣類とてなく、一枚きりの単衣を数年間も着続けたので、十七歳になった頃には、両の脛が出てしまい、せめて脛のかくれる長さの単衣が欲しいと思っていた等、三百石とりの娘で此の有様とはびっくり。テレビで見る時代劇とは大違いである。
 着たきりの単衣を洗濯したくらいなら、乾くまで肌着でいるしかない。
 戦争ばかりしていると、税の取り立てが厳しくて民衆の生活は野良犬並となり下がる。然し、体は我慢強く丈夫になったであろう。
 此の粗末なくらしも合戦となれば途端に変わる。
 陣中では一日米一升の給付の他に味噌・塩も配布される。不心得者は、その米で濁酒を醸したりしたとか。まあ、勝っていればの話である。負ければ米どころか首も無い、そんなこんなで合戦には恐怖を乗りこえて人が集まったはず。兎も角も命のある間は腹一杯食える。
 だが、食った食ったの連中も合戦となれば粥食にしたという。
 戦いというのに玄米に近い飯など噛んではおれず、胃袋の中まで真っ赤に緊張していたろうから粥を啜り込んだのは賢い。
 松の甘皮を剥ぎ取って打ち叩いて軟らかにしたものなどを粥に炊き込んでいる。松は体を温め血行を良くする効能がある。
 戦国武士は山野の菜を利用したが(畑の野菜の栽培が殖えたのは、江戸時代に入ってらしい。)今の私では、あっと驚きたくなる葉っぱ迄食べている。
 萱草・芹・はこべ・なずな・のびる・三つ葉・土筆・くこ・うど・竹の子・うこぎ・虎杖・自然薯・茸類・楤の芽・つわぶき・仏の座・たんぽぽ・榎の葉・藤の葉・大豆の葉・蓮の葉・杉菜には恐れ入る。
 うるしの芽迄、和え物の種になっているが、当時はそれなりに良い方法が有ったのであろう。これだけ手当たり次第に杪って食べて、よくぞ角や尻っ尾が生えて来なかったものだ。
 かの有名な真田信幸の述懐に「不遇の時、毎度、杉菜飯を食べた。稗粥もよく食べた」とあるから、将来、飢餓の時代が訪れたら、これも参考の一つにはなる。
 腹が減っては戦どころではない。昔の兵らは、細長い布袋に干飯や干梅干を三日分程は詰め込んで、腰に巻きつけた上に尚、水筒まで提げ付けて、合戦に赴いたという。
 炊飯の煙は、忽ち敵に見つかるので危ないというわけである。この腰兵糧は加藤清正も重視していて、自身も三日分の米三升と味噌、銀銭三百文を腰に付けていたという。大将とて合戦ともなれば油断はできない。
 人には飯と共に水も大切だ。兵糧の他に水筒まで提げたのだから、体力が勝負である。現代の食事ではこの体力は付かない、栄養は付いても根性では昔の男に負ける。
 何しろ彼らは、生きた草木のいのちをせっせと挘って、いや頂いて食べたのだから。
 ヨガの行者は、小食でいて凄い体力を保っているという。無駄な食物を摂らないので、体内に粕が付かない。それ故、体が百パーセントの力を発揮するそうだ。
 扨、二十一世紀に羽ばたかんと思う輩は、この大切な食生活を見直したら、一層の活躍が望まれようか。
 いやいやあ、問題はそんな暢気なことではあるまい。長年の減反政策で荒らした水田・水路は、簡単には復活出来ない。それに、荒土では米は稔らない。
 食糧が戦略物資であることを、日本人は今に思い知る日が来る。六十年前、あのガソリンが血の一滴と言われ苦しんだ時代があったのだ。
 食糧が不足すれば、道理も憲法も素っ込む。可愛い子や孫を、遠い戦地へ放出するのと引替えに、僅かな食糧を輸入して凌ぐなんて事にはなりたくない。然し必ずなる。
 自国の食糧のせめて六十パーセント位を、確保しておく農政を、今、確立しておかねばと誰も叫ばないのか。自国の米の生産費が髙過ぎるからと、ほざいて居て良いものであろうか。自分の命を誰に守ってもらう気なのか。自然を荒らせば洪水も起きるし、魚群も減る、人の心も歪んで来る。一体全体、日本人はどこを見ているのだろう。戦争を知らない子が代議士になっている平成のこの日本。
 地図を拡げてごらん下さい、此のちっぽけな日本を。これしきの自然が守りきれなくて、人間と言えようか。諺に「三代目にして貸家札」というのがあったが明治・大正・昭和・平成と来てもう此の国は他国に乗っとられているのか。
 農民が安心して農業に励み、楽しく生きてゆくことの大切さ。漁業も林業も、正常に営むことは、もう叶わないのであろうか。日本の生態系はどうなる。それとも、鉛ひとつで始まる核戦争の時代に、こんな思いは次元が異なるというのであろうか。