蟋 蟀

 半世紀近くも、一つ屋敷に暮してきながら、私としたら彼らのことを耳鳴り程にも思っていなかった。
 虫の音のぐんと減ってきた今日この頃、庭の一隅を占拠するこれら種族のみが、最後の頑張りをみせている、いや聞かせてくれる。
 体形はグロテスクでも、貌はまずくても、渋い色合いに全身を包んだ洒落者の蟋蟀たち。
 朝夕の冷え込みに、いつしか昼の虫となったが、まだまだと大合唱に励み玉をころがすような音いろを惜しまぬ実直さ。
 遅播きの胡瓜を採りに裏庭に出れば、いるいる。枯れをみせはじめた胡瓜の葉の下から、私の足もとへ無関心に出るわ出るわ。
 蟋蟀といっても、エンマこおろぎ、ツヅレサセこおろぎ、オカメこおろぎ、ミツカドこおろぎ、などと本に出ているが、要は美しい鳴き声を聞かせてもらえば、こちらとしては有難いので、わざわざ確かめたいと思わぬけれど、こおろぎと混同されていた「いとど」は磨り合わす翅が無いので鳴かない。などと私の小さな季寄せに書いてある。
 長い触角を動かし、夜は竃の近くに現われるので、かまど馬ともいわれているそうだ。海老のような格好というが、我が家には竃が無いからこれを見ていない。
 夜が小寒くなってくると、彼らも火を落とした竃の余熱を恋しがったのであろう。
 本によると、こおろぎは何といってもエンマが一番良い音色で、韻くようにコロ、コロ、リィリィリィリィと鳴くそうだ。縫い針を持ちたがるツヅレサセは、リイリイリイで、小さめのミツカド君はキチキチで、ひとしお小さいオカメちゃんは、リリリリリと短いそうな。誘い鳴きの時は末尾を引っぱるとか。
 こうなってくると昆虫図鑑があればと思わぬでもないが、これら奇怪な御面相と、じわじわ対面などはしたくないから、こんなところで良しとしよう。
 扨、その下半身のなんて言わず正確に、お尻から一本長いのが出ているのは雌であろうと、土に跼んでパッと押さえ、掌に拾いこんで仔細に見ていると、なんともはや死んだふりをする。彼女にとっては大ショックだったらしい。ご免、ご免。
 こおろぎは、背中の翅を持ち上げる様にして磨り合わせ、あの美しい音いろを出すというが、私の掌上では、むくれていて一音も出さない。
 足もとを見ると、蝿くらいなのがチョロチョロしている。
 これが、かの声美人、草ひばりかも知れない。フィリリリリフィリリリリと、銀の鈴を振るような透明な音色に聞き惚れてしまうが、名と実物がまるきり意外で呆れる。
 雄のこおろぎは、他の雄が縄張りに入ってくれば、キリ、キリ、キッと叱咤するという。こうしていると、何処かでキリ、キッなんて喚くのがいる。葉の繁みで見えぬがあれがそうかも知れない。
 蟋蟀とは、何とややこしい文字かと思うが、然し瞬時に、その容姿を髣髴とさせてくれるから漢字は面白い。
 江戸のむかしは『虫聞き』という行事があって、なんて読むと、こっち迄楽しくなる。
 日暮れともなれば風流人が集い野辺に繰り出して、毛氈をひろげ酒を酌み交わしつつ、虫の音を愉しんだ太平の世があったのだ。一句ひねったりの清遊の趣を深めようと、その辺りに虫を放っておいたかもしれない。いやいや、昔は踏んずける程虫がいたのであろう。
 そして虫を飼うことが流行り、虫売り屋が繁盛するようになる。
 本によると、寛政年間に鈴虫を補って売る者がいたが、やがて養殖法を研究してからは鈴虫のみならず、邯鄲、松虫、轡虫なども、卵から育てて売ったというから、偉い虫博士が居たなァと感服する。疑っては悪い。蛍も売られ、しみじみ世を儚んだであろう。
 その虫たちを、これまた声の良い伊達男が、粋な柄の浴衣の細腰を角帯できりりと締め上げ、折り手拭いを頭にのせて呼び声を流したそうな。
 肝心の虫荷は下男が担いで従ったそうで、そんなお江戸を一度見てみたいものだ。
 明治の頃迄、草虫たちの問屋があったという。何だか、お伽噺みたいな心持がする。
 その虫売り屋と同時に虫籠屋も出現したはずで、当時の竹細工の虫かごは、当今では作れぬ程の繊細な美しいものもあったろう。
 数年前、京都のさる御宅に伺った折、信じられない程古い時代の硝子の虫籠を、思いがけなく見せて頂いたことがある。
 其の長方形の虫籠は、赤や青のガラスの極く細い棒を縦にして四方を囲い、最近のプラスチックの虫籠の五倍の広さは有りそうに見えた。一本の硝子棒も折れてはいない。
 折角、私の膝前に置いて頂いたのに、あまりに美しく手を触れるのは憚られた。
 日本に唯これきりという其の虫籠は、ちゃんと美術本にも載っており、持主はこれまた清清しい学者肌の人であった。
 見せて頂きながらガラス工芸品のことなども色々と教わった。
  売る気の無い秘蔵品という。虚心に見惚れていると、
「値は付けようもないが」
と、同席した骨董屋が、三千万は下るまいと私の耳に囁いた。
 私は、値段よりも、こんな毀れやすい脆いものが大昔に異国より持ち込まれ、今まで日本に在り続けたことに驚いた。
 其処に在るだけで、人の心を和ませてくれる美しいガラスの虫籠を思い出し、あらためて足許のこおろぎ連を眺めると、彼らを何ひとつ世話をしてやらないのに年年現われては、清冽な音色を精一杯ひびかせてくれ、ひとかけらの報酬も求めはしない。
 天然とは何と尊いものかと頭が下がる。