横顔 2

  子規の結核は、リューマチに似た症状があり、床ずれと悪性の腫物のくずれたのとで、激痛に号泣の毎日であったというが、モルヒネで痛みを押さえている間に子規は書く。
「うめくか叫ぶか、泣くか、またはだまってこらえているかする。そのなかでもだまってこらえるのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに泣くと、少しく痛みが減ずる」
 そんな時、羯南は子規の手を握り、
「ああよしよし、僕がいる僕がいる」
といったという。
 絶望的な病気の子規にとって、羯南は観音さまであり、全身全霊でとり縋る救いであった。ある時は、その病気を慰めんとして、妻と幼い娘を訪れさせ、その子に土産物のチマチョゴリを着せて、子規に写生させている。彼は、その仔細なスケッチを遺している。
 結核を死病と恐れ、的確な治療法も無い時代にである。出社も出来ない子規に、社員として給料を払い、文学活動を支援し通した羯南。東北人は、実に情の厚い信義の人だと尊敬する。
 子規没後五年目、彼も結核の為、五十一歳の生涯を終えた。
 子規を、大切に磨き、輝かせてくれた大恩人、陸羯南を伊予人は忘れてはならない!
 母と妹の懸命の看護、それを友人知己がとり巻いて子規を支える有りさまは、当人が克明に書き残した手記から窺われる。凄まじい迄の闘病記なのに、無惨ではない。子規の無類の健啖ぶりをみよう。
 没する一年前頃は、どの日付を見てもエッこれほんとに、子規さんひとりで食べたんだって、ウッソーと言いたい。今日一日を生き抜いて、確かな仕事を遺したい願望が、食欲にすり替わっているといえようか。
 それを記憶している子規の心中は、精魂を傾けて自分を養ってくれる肉親への、言葉にしない分の労りと思える。その母と妹は、茶の間で漬物と汁くらいの質素な食事をとっていたのだから。そして、この食養生を可能にしているのは、陸羯南の厚意に外ならないことで、必死の病人は書き遺すのである。
 「仰臥漫録」によると、死の前年の、
   九月十九日 晴
   便通
   朝飯 粥三碗 佃煮 奈良漬
   午飯 冷飯三碗 堅魚のさしみ 味噌汁 佃煮 奈良漬 梨一つ
   間食 牛乳五勺ココア入 菓子パン 飴一つ 渋茶
   便通及繃帯取替
   晩飯 粥三碗 泥鰌鍋 キャベツ ポテトー 奈良漬 梅干 梨一つ
この続きに奥羽行脚の思い出とか、長塚節から、鴨三羽を小包にて送るとの報せが来た文に、田舎の秋景色など書いてあるのを見て、子規が羨ましがってちょっと行ってみたいと言ったので、
-母は稲の一穂を畳のへりにさされた-
などと記してある。
 動けぬ重病の息子の為に、どこかで一穂を摘んで来た母。この稲穂で茨城の秋光を思わせようという憶測の心、まるで禅僧の如き母御である。
 また、十月二十六日の日付には、体は次第に衰え膿の出る口はふえる。膓骨の側に新しい膿の口が出来て、その辺りが痛む。このため寝返りが困難で、咳をしても泣いてもここにひびく。体の痛みに毎夜いく度となく目をさます。物をみて目がちかちかする。歯は左の方痛くて噛めず、右の方にて噛む。痛みが激しく、繃帯の取替は、約一時間かかる大難事であるとも書いている。まるきり地獄ではないか。
 医者が、生きているのは奇跡と驚くこの体で、モルヒネの効いている暫しの間に、肘をついて、筆先に紙の方を近づけ、草花を写生するのが何よりの楽しみだと子規はいう。
 写生画を始めた頃
「僕に絵が描けるなら、俳句なんかやめてしまう」
と言わしめているくらいだから、絵は、死病の床で大きな救いであった。子規はまた、「神様が草花を染める時も、やはりこんなに工夫して、楽しんでいるのであろうか」
などとも言っている。
 私は、複製画を見た時、子規の絵は全く素朴そのものに感じた。色に透明感があり、傍らの人がこまめに水を取り替え、筆を洗ってあげたナァと思った。
   藤波の藤の花房花垂れて
   病の牀に春暮れんとす   子規
 根岸の里の子規の病室は南向の六畳で、虚子が入れてくれたガラス戸から小さな庭が見える。これが子規にとって唯一の天地である。
 このガラス戸のそばに、俳友がアムール河で拾って来てくれた、七つの小石が並んでいる。子規はこの石たちにも歌を詠んでやり、小石を仲間に北の曠野の朝風夕焼を想像した。想像力も生き抜く力としていた。
 小庭ながらも、小松や柿、枇杷などの木がそれぞれに小さいながら所を得、かき分けて見れば一通りの草花は揃っていたというから、これでも、春夏秋冬、宇宙の一角であることには変りなく、ちっぽけな昆虫たちも、のほほんと闊歩していたに違いない。
 何しろ家主はのどかな春の伊予人なのだから。子規はいう、
「あしは、この庭を写生することによって、天地を見ることが出来る」
月の光は、草の露にも一滴の水にも宿るというわけで、土台石の如く動けぬ彼には、それしか生き様はあるまい。
 明治三十五年五月五日、即ち没する四ヵ月半前より、新聞日本に「病牀六尺」を連載しているが、六月二日の項に、
   余は今迄禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ねる事かと思っていたのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。                      (六月二日)
これこそ、死の襖際に生きて来た子規なればこその大悟である。
 然し、この後百余日ほどで子規は絶命する。激痛の為、麻痺剤に頼るしかない中で口述筆
記は九月十七日まで続く。
 翌九月十八日には、碧梧桐と妹に助けられて絶筆三句を認めた。
  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間にあわず
  をととひのへちまの水も取らざりき
生きて生きて、ローソクの一滴まで燃焼し尽くした子規であった。
 辞世の三句には、遍路の国の人らしい強靭な諦念がある。
 その翌夜、あれ程苦しみ抜いた子規が、誰にも気づかぬ間に静々と苦行の晩年を了えた。
 お山の天っ辺の、まんまる満月の如く、確かな存在感でもって三十五年の人生を輝いた子
規。
 明治とは、日本人が人間らしく堂々と、また孜々として、主役も脇役も真剣に生き抜いた
時代であったことを、日本人として誇りに思う。