横顔 1

 子規先生の生まれた伊予の松山の町に生まれた私というだけで、おこがましくも大先生のことを書いてしまった。まことに不遜の極みであると大反省したけれど、その生活の一面を知ることによって、なお子規の偉大さが理解できると思うので、敢えてまた一端を書いてみよう。
 正岡子規は、水晶のごとく多面体の輝きを持っていたろうと思う。いろんな分野に興味があり、それなりに究明したに違いない。
通常の人から見れば、好き安といわれそうな程。
 それがまた魅力となって、大勢の若者がこの渦の求心のような子規をとり巻いて、彼らも結構楽しんだり励んだりしたことであろう。
 子規は外国語が不得手のせいで、自ずと踏み込む範疇は定まってしまう。大学予備門時代の彼は、戯れ本を読んだり、娘義太夫に通ったり、牛鍋屋で議論したりの友人を持ち、並の放蕩息子にみえる。大志は有れども、
「勉強せざるべからずとは絶えず思えり。されど学課はきらいなり」
と白状している。
 ものごとの追求力はすぐれているが、その力をどこに向けて結晶させてゆくかが、若い子規の悩みであった。
 結局は、俳句、短歌の革新という畢生の仕事に取り組んだのは、当人にぴったりだったのではないか。
 子規は、人徳というか寂しがりやの裏返しなのか、他人と楽しい座を作ろうとする人であったという。
 来客が有って共通の話題が無い時は、ベースボールをしようと呼びかけ、我から外へ駈け出してゆくふうで、運座の宗匠よろしく、いつしか皆をまとめてゆく性質であった。
 中学生の時、他の者に情報を集め書かせ、自分が主筆編集して、葉書大の新聞を作ってみたりしている。
 お山の大将的な生得のものが、あの横顔にはある。首領(いやドんといった方が良いか)になるには、鋭敏では人が居付かず、軽量では鎮座できず、大様そうでもって頑固、時にチラリと弱点を仄めかす度胸も必要となれば、なかなか以て常人ではなり難い。
 ある時、子規を目撃した虚子の文章に、
「東京仕込みの人々にくらべ、あまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ずから此の一団の中心人物であるごとく」とある。
 これは、生い立ちの影響も大きかろう。六歳で家督を相続し、母子家庭のたった一人の男として、大切にされ期待され、皆の手の温もりで一本の棒を立てるが如くである。
 正岡家は武士でなくなった時、家禄奉還金千二百円を受けている。三人家族つつましく暮らせば、安心して過ごせたのではあるまいか。子規の成人までは。
   菜の花やはっとあかるき町はつれ  子規
 それにしても、子規は良い母をもった。この母八重は、正岡家に嫁いできて四年目くらいに、曾祖母の晩酌が過ぎて失火全焼した。嫁入道具は何ひとつ残らず焼けたが、八重は残念そうな顔ひとつ見せなかったと、当時の語り草になったというから、相当に肝の坐った女である。子規が重病のなかで、平常心を振るい起こして生きようとした姿には、この母の資質をひいていると思わずにはおれない。
 この母は、松山藩の学者、大原観山の娘である。この外祖父に子規は愛され、数え年七歳から論語や孟子の素読をうけた。祖父は、
「なんぼ沢山教えても覚えるけれ、教えるのが楽しみじゃ」と喜んだというから、記憶力抜群だったらしい。
 小学校に上がると観山翁は、これまた後輩の儒者、土屋久明に依頼して漢字を学ばせた。土屋久明は観山の愛孫を頼まれたことを誇りとし、じきじきに教授したというから、ここでも幸運である。
  ことごとく誰やらに似る雛かな  子規
 母八重の弟、加藤拓川、この人は明治十六年に旧松山藩主、久松定謨(二十歳)のフランス留学に従うことになり、その直前、上京してきた子規を友人の陸羯南に頼んだ。
 羯南は旧津軽藩士の次男で、明治九年当時の秀才養成とされた、司法省学校で学び、拓川と知り合った。この人は、やがて新聞「日本」をおこし、明治言論界の雄峯として政府を震えあがらせる程の論客となる。この男が子規の才能を認め、新聞「日本」紙上に活躍の場を与え、生涯子規を心身ともに援助してくれた。
 明治二十二年、子規は二度目の喀血をし、後十年の命と思い俳句分類の大事にとりかかったといわれる。その夜、
   卯の花をめがけてきたか時鳥
   卯の花の散るまでなくか子規
など、ほととぎすの句を四、五十句詠み、自分を子規と号したと言われている。
 明治二十五年末、羯南の日本新聞社に入社、月給十五円。すぐに母と妹を呼び寄せ同居した。子規の妹、律はその間のことを、
―母と私とでは月に五円で食べてゆけます―
が、病気もちの兄ひとりに二十円の経費が要り、大原家などに才覚を仰いだふうに語っている。子規の在京により、奉還金も底をついたであろう。しかし丸一年後には、羯南の好意により月給三十円となり自立出来た。「新聞日本」は当時の欧風一辺倒を批判し、日本的なものを守り続けたい社風であったから、子規も俳句欄などで嚆矢を放ったであろう。
 子規は、墓碑銘〈・・・・・・日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十円〉として碧梧桐に預けおいたのをみても、陸羯南に出合った幸せと、深い感謝の念がよみとれる。羯南あっての子規であった。

10月号に続く・・・