神風伊勢参宮

 扨々、文化・文政の時代といえば、明治となる五十年から六十年前。世の中は、平和だったか苦しかったのか。兎も角、日本の庶民は旅が好き、(防人にゆく以外は。)御存じ十返舎一九の『東海道中膝栗毛』あの珍道中に、煽られたのかも知れない。十返舎本人は、旅をしなかったとか。

 ところで何と、通行手形・関所手形というあのむつかしいものが、要らないという不思議の一団が有ったのです。先ず、徳川御三家の家臣や直参旗本・御家人たち。それに僧侶、虚無僧、いろんな芸人たちでした。

 芸人は、自分の芸を披露してみせて、身分を証明したようです。そんな時の関所役人は、思わずほっとしで、人間性をとり戻したことでしょう。

 また、各藩の印は予め届け出してあり、家来共は、同じ印の手形を見せれば良いという訳で、昔も今も、役所の制度は抜け穴だらけのようです。通行人から関銭を納めさせていた関所制度は、明治二年に廃止されています。

 ところで旅好きの日本人が出かけた先は、矢張り神の国です『お伊勢さま』でした。この伊勢参宮は、何時ごろから始まったのか分かりませんが、平の将門の乱が起きていた頃(彼は九四〇年に戦死しているが)既に「参宮八十万」と記録に有るというから凄い。

 道の整備がされているとも思えずサークルKが有るでもないのに、難渋の旅を続けてまで、人々を伊勢参りに駆り立てたものは、一体何であったろう。調べてみたい。

 江戸時代には、六十年おきに参宮ブームであったとか。宝永二年、かの有名な国学者、謹厳居士、鈴屋の大人の本居宣長は、著作の中に於て、四月末からの五十日間に、彼の住んでいる伊勢街道を通過した人数を、三百六拾二万人だと記してあるとか。茶店の団子は、さぞ売り切れた事でしょう。それならば、一日当り七万二千人をいったいどうやって見事勘定したのかと、あれこれ考えているところです。

 この騒がしさでは、先生とても国学の研鑽どころではなく、表の往来を眺めているしかなかったかも。赤穂浪士の仇討が、一件落着の頃のことでした。

 また、仁孝天皇の御代の中程のブームでは、南の果てから北の奥からと『お伊勢さま』を目ざして、何と五百万人が移動したというのです。余程、日本は暇だったのか。これは、当時の人口の六分の一が、洪水の如く伊勢街道になだれ込んだというものです。殆どの人が、いやいや誰もが足は二本しかないけど、よくぞ歩いたと感心する。男は一時間六キロ歩いて並だとか。これでは、伊勢街道の地面は、大理石の硬さになったことであろう。

 そんな時代そんな人達をみて、施したい、喜捨をさせて欲しいとて善人が沢山あらわれた。小遺銭や食物、宿舎を提供して、伊勢詣での善根にあやかるのである。人間て良いもんだ、と思ってしまう。

 その伊勢には、御師(おんし)といって、神様の御加護や御功徳を大衆に教えて歩き、その年の神札と伊勢暦を配布してゆく人がいました。此の伊勢暦とは、毎月・毎日の吉凶はもとより、季節の移りに従う農作業の手順など、人々の頼りとなるのもで、心待ちにされているものでした。

 御師と信者のつながりは固く、分担する地域の信者の伊勢参宮にあっては、宿泊先の手配はもとより、神楽を奏して御祓いやら買物の世話、名所案内さては遊廓へと随分と大切にされております。(観光買春の根は深いと知った)まるで現代の観光バス旅行とよく似て、連れ立つ点では人も川も目高と変りゃせん、その御師を通して親から子へと伊勢講が続いたのです。

 千人くらいの御師が全国を行脚していたそうです。だから見知らぬ土地へも安心して、大勢で出掛けて行けたのでした。聖地として、伊勢は日本に君臨していたわけです。

 今の世では想像も出来ないが、昔の子供たちは逞しくて、六歳から十歳位までの間に親にも知らせず、内緒で、柄杓一本担いでの抜け参りをしていることです。黙って参れば御蔭が大きいとの言い伝えが有って、全国から伊勢を尋ねるのでした。これが『抜け参り』です。柄杓をさし出せば、何がしかの喜捨があったればこその旅立ちで、ここらは四国遍路の接待と同じ民衆の温みがある。子供たちはもう直ぐに、丁稚小僧や下働きに出されるのを弁えていたからです。奉公に出る前に参宮をしたのでした。

 一方、娘たちもせっせと抜け参りしていました。コギャルたちの出かける先が『お伊勢さま』ともなれば、誰も止められなかったそうで、昔の人は純粋に神を畏れていたのでしょう。娘の貞操は今と同じだったらしいので、だから親も大胆で、可愛いい子には旅をさせたのでした。だが、朝から夜迄働かされ通しの子供や娘たちにとっては、大威張りの息抜きだったかもしれない。やったァと言ったかも。しかし、旅先で運悪く病死するかもという危険などは、有った時代でした。旅に出るのは水盃だったのですから。

 これら子供と少女らの抜け参りの数が、参詣総数の三割は充分あったというから、当時の日本の治安は良かったのか。しかし、人攫いなどが有ったのだから、今の米国並かも。江戸から伊勢まで約百里(四百粁)もっと遠い地方からも彼らチビッコ連は、何日かけて歩いたのかと思わず心配してしまう。雨の日、風の日はどうしたのだろうか。世間は甘くない、野良犬の濡れそぼった姿をふと重ねて思う。(オイ昔だよ)だが、子供というものは身軽で足が早い。案じ過ぎることは無いのかも知れない。何しろ昔の事だもの。

 十年位前だったが、二千米にほんのチョッピリ、物干竿一本の長さ程足りない霊山に団体で登った時、数え年四歳の男の子が、若い母親に見向きもされず歩いています。「足が痛いよう」と泣いてみせても、彼女は何とも大きなリュックサックを背負っているので、激しい口調で叱るのみで、泣き喚くのに振り返りもしないで先へ行ってしまいます。

 思いっきり荷を軽く出てきた私は、スパルタ教育にも程がある、と見かねてしまい、遂に決死の覚悟で幼児を背負おうとした途端、坊やぐるみ他人の私まで、その若い母親に叱り飛ばされてしまい、

危うく山道からぶっ転げそうになった。結局其の坊やは、小さな擂りこ木のような足で歩き通したのだから、子供とは子犬と一緒で強いなあと知りました。

 若い母親は、特大魔法瓶や多すぎる着替やパジャマに化粧品に何やらかやとリュックに詰め込み、彼女自体が大変だったのでしょう。無茶は若さ故の特権だと、少々羨ましい。(ありゃりゃ、また脱線してしまった、伊勢はどうなる)

 街道に付きものは駕籠かき・馬方、彼らも例の格好では、いかにも神様に相済まないと、縮緬の襦袢で働いて心意気をみせたそうです。緋縮緬を着た駕籠かきを想像して下さい。

 施しを受ける為の柄杓一本掴んで駈け出せば、貧しい人も女や子供でも、その日常から抜け出せるとは、伊勢参宮は『メビウスの輪』にも似るが、毎月六十万人とは驚き入る。

 この『おかげ参り』が幕末には『ええじゃないか』の乱痴気騒ぎを生んで、踊りまくってしまうのだが、日本人は妥協が早いのか突き詰めて考えるのが嫌いなのか、五人組制度の名残なのか、常に左右に目くばせして揃いたがる。

 ともあれ、昔を調べてみると、人間の底力というものが分かって愉快になる