薬石御存じですか

 私、体験しましたのよ。驚きでした。
 此の頃少なくなりましたが、新聞をひらくと下の方に「お知らせ」が並んでおり、「この度、薬石効なく永眠仕り候云云」とありましたね。
 私は、人名に興味がありましたので毎日全員のを読んでおりましたが、薬石って何だろうと不審に思っていました。薬と温石を一口に薬石とよぶのか、それとも薬石というものが有るのか。ところが、有ったのでした。
 今年の夏、我が家に大仕事が出来て、毎日毎日一輪車に土砂を満載して運んで居りました。誰ひとり「齢を考えろ」と言ってくれなかったので、つい働き過ぎたのか、本の読み過ぎなのか、此の頃目ン玉がすっきりしないと思っていたら、或る朝、なんと左目の視野に大きな黒い楕円形が出ているのです。
どちらへ視点を動かしてみても、太筆にたっぷり墨を含ませてべったりと塗ったように、まるで黒猫のごとく視野を右往左往するのでした。信じられないよ、と言いたかった。極楽とんぼの私もこれには流石に気が滅入り、仕方なく市民病院へ直行しました。

 眼科医は若くて真面目そう。とても親切にいろんな器具を使って私の目を調べて下さり、最後に大きく見ひらかせ、正面から眼球の写真をパシッと撮って下さいました。
 そうしてから優しく労るように、不安そうな私の顔にじっくりと目を当てながら、
「昔、目に怪我をしたでしょう、それを忙しいからと治療せずに放っといたでしょう。それが原因ですよ」
 そうそう、若い時は無茶苦茶に働く毎日だったと思い出しました。今と違って交通不便な土地でしたし。
「でも心配はいりませんよ。病気ではありません。今となっては治療の必要もないし、薬もいりませんよ」
 え、何ですって。私にとっては大変なことなのに。この状態に慣れることですなんて、まあなんと。
先生は、
「一枚記念に上げますよ」
とやさしく眼球の写真を下さった。
 私はゲゲゲの鬼太郎にでも出て来そうな目ン玉のお化けを一枚もらって、がっくり帰宅したのです。

 暫くは仕方なく働いていたが不愉快なこと此の上ない。気になりだすと此の「まっ黒けの黒ん坊」はますます存在を主張してくる。読書など、とても出来ない。
 現今の医療で不治なら行く所は市井の治療院しかない。私は古本屋で探していた本に出ていた「薬石治療」に赴いた。家から車で一時間走った。
 これ以上落胆をしない為、私は目の黒ん坊は黙っておいた。薬石は万病に効くというのだから、それなら「じたばた」したって仕様がないと思って、受付嬢に「疲労」と答えた。
 ここの薬石は、約五ミリ四角の絆創膏の中心に、直径一ミリの白い粉が一粒貼ってある。これですべてである。まるで頼りない「ほんまにこれで効きますのか」と言いたくなる。
 先生は坊さんである、神妙な顔で頭から足の先迄、人体の裏表に百五十箇所は貼って下さったのではあるまいか。すると途中から真っ黒くろべえが薄れてゆく、だんだん灰色になる、貼り終えて私が椅子からすくっと立ち上がった時には、あの黒ん坊は完全に私の視野から消えていた。「万歳ッ、やったあ」と雀躍りしたい気分を押さえ、私は丁寧にここに祀られている薬師如来に頭を下げた。どのツボに貼った薬石が目に効いたのかは分からない。目に棲みついていた黒ん坊のことは此処の先生に話していないのだから。
 奇蹟と言える目の状態が、一体どのくらいの時間、又は日数が程は続くのか不明であるから、この件に関しては黙っていた。だが只の一回きりで、二カ月過ぎても黒ん坊は出て来ない。あぁ助かったと思う、もう喋っても良かろう。
 ところで薬石って何だ。調べてみたところ地方によって産する石は違うらしい。この石を削り煎じて飲むと、いろんな病気に効くという。また石の粉をワセリンに混合して塗ると、ちゃんと薬効があると本に書いてある。痔なんか治っちまうとかである。酒に入れると味が良くなるばかりか、二日酔いしないというから面白い。水も断然美味になる、出されたお茶がまた美味しかった。薬石入りの水とか。
 兎も角すべての病気に効果ありということは、身体の芯の生命力を活性化するのであろうと思う。自身の治癒力をひき出すのであろう。だが痛みは瞬時に除くそうだ。

 薬石とは不思議な石である。難しい事は小松ダイヤモンド工業顧問の長島乙吉氏の「薬石研究」の著書をお読み下さい。この方と坊さん先生は御昵懇であったという。私の体に貼って下さった薬石は、坊さん先生が日大理工学部電気科を出て、東京小松製作所のエンジニアであった頭脳と経験を活かして、色んな薬石を使い、病気に効果ある大きさと貼る回数を二十年間研究した結果のものという。
 但し運不運はあるもので、体質的にこの薬石が全く効かぬ人が一割あるという。効きめの薄い人も二割は居るそうです。新薬でもそんな所だから仕方ないか。兎も角、坊さんが嫌で寺を飛び出した人が今また坊さんとなって、一心に研究しつつ人助けをして下さるお蔭さまで、私の目は快哉である。伊藤善重先生、有難うございます。
 西洋医学に目が眩むことなく、こんな治療法も大切に伝承してゆきたいものだ。