春や昔十五万石の城下哉  子規

 伊予に生まれた子規大人の山脈は、今や、駘蕩として視野を広げ俳句の花は全国に咲き匂うている。此の五・七・五の短詩型が、日本人の性質に相性が良いのであろう。
 扨、その名もやさしき愛媛の国は、前方を瀬戸内海の漣に手毬のような緑の島を鏤め、うしろは神の鎮まりいます石鎚山系の堅固に凭れ、気候温暖、風光明媚。山には黄色の蜜柑をはじめ、柿の実栗の実。豊かに肥沃な平地で、

   名月やすたすたありく芋畑    子規

海には鯛やら海苔やら貝やら、お城は桜で、道後は湯けむりである。

   行く人の霞になってしまひけり  子規

 寒さも穏やかで、雪でも降れば珍しがり、一句ものさねばならぬかと思う程であった。
 海というものは滑るが如く平らなものばかりと思って、海月のように、それなりに育ってしまった私は、いま一つ、奮発心が足らぬと自戒したりもする。大いに手遅れだが。
 帰省した時、町なかでの店で食事をしていたら、そろりと入口の戸があいて、剃り込みのきつい恐そうな若者が首だけ差し入れ、なんと甘えたふうに、
 「おばさん、今なん時ぞな」
と、尻あがりの抑揚で暢気そうに尋ねたのには、さすがに伊予だと納得した。

   唐辛子一ツ二ツは青くあれ    子規

 私らの年輩では、男でも自分のことをウチという。また進行形の動作は「笑いよる」とか、来つつある事を、「きよいでらいな」と優し気に表現する。三河なら「駄目ッ」と叱るところを、「いかんがな」と窘める。一昔前は男女とも、「ほいでなもし」や、「なに言よいでるんぞなもし」だったから、これでは間どろしくて、双方いかに頑張っても喧嘩とは認め難い。漱石がぼやいた筈、当今は、誰もせわしい為か語尾の、「もし」だけはチョン切ってしまった。

   松に菊古きはもののなつかしき  子規

 そんな伊予から三河へ来て驚いたのは、言葉と味噌であった。どちらを向いても口論している様に聞こえたし、私迄叱られている心持がする。それにあの真っ茶色の味噌汁には閉口した、辛くて堪らん。
 伊予は麦味噌で甘口である。よそから来た人は汁椀を覗いて甘酒かと疑う。
 これでは、人も犬も長閑に生きてしまったとて仕方がない。暇が出来れば金儲けなどより、「どうぞな」一句となったのでは有るまいか。

   夕雲雀もっと揚って消えて見よ  子規

 伊予の殿さん久松様の御先祖は、徳川家康公の御縁に繋がるとて、三百諸侯の中に有っても格別だったらしく、幕末はよんどころなく佐幕藩であった。
 石鎚山系に背中合わせの土佐は官軍で威勢が良い、当然攻めて来る。松山藩は早速に占領されたらしい。それも、たった二百人の敵兵に降参して十五万両もの償金を取られる始末である。よくよく喧嘩はしとうない、人が良い、諦めが早かったとみえる。駈け引きは下手で欲の無い連中が多い土地柄であった。

   小石にも魚にもならず海鼠哉   子規

 その替わり、賊軍とされたからには御一新後の出世の道は、各人の頭脳と努力しかないものと胆を括り、一気に落ち込んだ貧窮をものともせず、子弟らに学問を励ます気風が大いに育った。志ある者は、石にも大根にも齧りついて堪えに堪え頑張ったに違いない。その努力と根性ぶりは、賊軍となったのが幸いしたかも知れぬ、その中で子規山脈も隆起したのだから。
 松山藩にとっては不可能とも思える途方もない大金、十五万両を差し出して息も絶え絶えにされてしまった七十年後、そのお城のお堀端に陣どる番町小学校へ私は入学した。

   ふるさとはいとこの多し桃の花   子規

 明治の功労者、秋山好古大将、真之中将の兄弟に続けとばかり、勉強は厳しい小学校であった。生徒が病気で欠席しても、その祖母が登校して来てメモを取っていた姿を覚えている。が、一面はチョイとお洒落で、女生徒にはドレス風の可愛いい制服を着せてくれたし、男女とも体操シャツの真白い胸には、黒ビロードをカットした、ローマ字のBがぴったり貼りついていたもので、学校や父兄の意気込みが感じられたと今にして思う。
 その大恩を忘れはて未だ世に益する片鱗さえ無く、さりとて黄金の貯めず、まして俳句が下手ときては、とてもとても、「ふるさとは遠くにありて」と書くほかはない。

   無花果に手足生えたと御覧ぜよ   子規