百年たったら

十年一昔というが、此の夏、百年を一気に、わし掴むようなことに出合った。

同じ新玉町に生まれた気易さから(正岡家は、そのあと、この家を売却、湊町に移転)、ついつい子規巨星の一端を書かせて頂いたことの無遠慮さを、お詫びせねば心地にて、その終焉を書いた時点で、子規居士の墓参をと思っていた。が、何しろ夏休み・お盆が一斉に、わやわやと渦巻いて落ちつかず、漸くのこと、それらを片付けて出発に漕ぎつけた。

本には、明治三十五年九月二十一日葬儀、会葬者一五〇余人、滝野川村田端大竜寺に葬る。戒名「子規居士」とある。

先ず、軽自動車で自宅を出る。つづら折りの山坂を下って一時間。豊川の世記先生の庭に駐車させて頂く。そこから、バスで四十五分、豊橋駅に到着。

まっすぐに「みどりの窓口」へ走る。親切な駅員さんは、「東京駅についたら、山の手線内まわり、上野方面に乗って下さい。この切符で、そこ迄行けますよ」と丁寧に教えて下さる。有難う、ありがとう。

「ね、東京ってギャング、いるかもね」

「そこまでは、僕ではなんとも。なるべく、人のいる所に居て、一人にならんようにして下さい。」

孫のような駅員さんは、まだ心配そうに私を見つめて、

「気をつけてね、構内の表示をよく見るんですよ、山の手線は上へあがるんですよ」

と、椅子から腰を浮かせて叫ぶ。

乗れば忽ち東京駅だ。目ざす田端にもすぐ着いたが、滝野川第七小学校が見つからない。線路沿いに歩く。尋ねると或る人は線路の右側と言い、次の人は左側だと、自信あり気に教えてくれる。歩きに慣れている田舎者の有難さ。おまけにペッタンコの靴だから、そんなこんなが苦にならない。百十余年前、ここら辺りが田園の頃、子規連が散策したであろうなどと、思いながら歩く、いや、こんなに暑くてはどうだったか。

おや、ついに見つけた、滝野川第七小学校。隣は、鉄筋三階建ての大寺である。長大な白壁の堀をめぐらし、田舎の小学校が顔負けする大寺である。黒一色の建物は、さながら巨大な石塔に見える。廊下つづきの本堂は、これまた美しい回廊をめぐらした二階建てで、朱や緑や金具の光もピッカピカ。だが、どこも閉め切りで、三階迄のどの窓もしっかりカーテンが引かれている。境内にも人影さらに無し。これがあの大竜寺か。

此処迄来れば大丈夫。私は右隣の八幡社の大銀杏の下のベンチに腰掛けた。なんと、広い境内の中に、銀杏から欅から、大木・巨木がいっぱいである。掃除が行き届き、葉っぱ一枚、塵ひとつ無い。そこで汗を拭いて、身じまいを整えた。この境内の美しさは土地の人の心意気かと感心する。

もう一度、山門前に至る。左側に、赤茶けた古い石柱があり「子規居士墓所」とある。ここ東京では、我らのお寺さんの如く、どっからでも入り込んで、

「ごめえんくださあい」

などと甘えて、お庫裏さまを呼び立てる雰囲気では無い。泥棒よけの為か、縁側が無い。取りつくしまが無い。

意を決して、玄関迄行ってベルを押す。途端に、

「今日は法事が有って、忙しいんですよ」

と不機嫌な声が頭の上から降ってきた。びっくりして仰ぐと、充分過ぎる熟女が玄関左側の小窓から顔だけ覗かせている。

「すみません」

私は思わず謝ってしまった。子規先生のお墓参りをさせて欲しいと頼むと、

「どうぞ」

という素っ気ない返事に、家から用意してきたお布施をつい出しそびれてしまった。

寺の裏は広大な墓地である。供花が暑さで直ぐ枯れるせいか、盆すぎというのに墓参の気配が残っていない。花一本、櫁一本無い。枯れるや直ちに、寺の方できちんと片付けて下さるのかも。まことに殺風景で、この炎天に足許から寒気が這いのぼる。周囲の墓が見ている。子規居士の墓は、墓地の左側のどん詰まり、隣地との境に、ほんの一部残っている煉瓦塀を背にしてこんなふうに立っていた。

正岡八重墓

子規居士之墓

正岡累世墓

墓碑銘

生前、子規が友人に託しておいた墓碑銘は如何ならんと見れば、黒い石を上部に嵌め込んだ碑に、文字を釘で引っ掻いた様に、あの墓碑銘を刻してある。文の終りに、

「昭和十一年二月碑面の銅板を盗まれたので硯面のごとき石をはめ込み改めて彫りつけた昭和十一年九月十九日」

と、これまた引っ掻いてある。

子規居士の墓石のうしろは、赤い煉瓦塀とは一尺の隙しかない。そこに誰かが、竹の里人にちなんで、細竹を植えたものだから、長年の間に殖えてしまい、うっとうしく、墓の頭に被さっている。細竹は墓を潜り前にも出ていて、それを刈り払いたくとも、鎌が無い。墓は、汚れきって幽鬼さながらだ。

子規が、子の如くにもと愛した虚子は、昭和三十四年に、八十五歳で没したが、あの大戦の後の昭和二十二年、鎌倉に戻ってから、せめて数年に一度ぐらいの展墓はあったと思いたいが、この有様ではどうも、それからでも約五十年は経つ。

また、正岡家は、母八重の身内、加藤拓川の息子、忠三郎が継承しているはず。彼は明治三十五年生まれだから、その人の子孫が有るわけだが、此の捨鉢な有り様は、墓にとっては洵に無念であろう。

さりとて、他人の私が、束子を持ち込んで、それも針金束子でなければなるまいと思うが、ガリガリ洗いたてるのは如何なものか。矢張り、その筋目の者がきちんとするべきで、無縁の私は、手出し無用と自省する。

明治三十年一月十五日、松山に於て「ほととぎす」創刊号が出て以来、今日に至る迄、立派に続いている。東京近辺の支部や、またほととぎす同人連が、誰一人この事を知らないというのか、誰も手を打たないのか。

百年とは、こういう事かと思う。人声もせぬ此の寺の、桶と柄杓を無断で拝借して何回も水を運び、三基の石にざんぶりと水の御供養させて頂くしかない。寺の玄関にある自動販売機で、お茶を出して墓前にのせて帰ることにする。

此の大きな立派な寺の清潔なトイレ、句会が出来そうな広い休憩室などとは、およそ不似合いな無惨な子規居士らの墓。

さて、この事どうしたものか。俳句全盛の昨今、旅の途中に立ち寄った者が居たとしても、この傷ましさには驚くのみで黙っているだろう。私も子規居士に、妙法蓮華経如来寿量品を読誦しておくのみで、黙っていようと思った。

然し、どうも落ちつかない日が続く。あの烏賊墨を頭からかぶったような、無惨な姿を知らん顔では済まされぬ。遂に手紙を書いた、松山市子規記念博物館御中と。

虚子を待つ松覃鮓や酒二合   子規