東日本大震災・フクシマから9ヶ月半

どんなに冬が長く厳しくても、
春があまりに遠くにあろうとも、
春の来ない冬はなかった。
・・・・・・・・・・しかし、
どんな春かが問われている。

予期もしない、望みもしない死を、突然迎えることになった2万人にも達しようかというひとびと、瞬きする間もなく壊滅した町並み、見るかげもなく荒廃した国土、そしてフクシマ。
3月11日は、私たちから何もかもを奪い去った。

あのテレビからあふれ出たリアルタイムの映像に、衝撃をうけなかった人はいない。
この世の現実とも思えなかった。
それが自分の現実だったらと、身体の芯まで凍りつくような恐怖を感じながら、みんな想いを馳せたにちがいなかった。

あれよあれよと言う暇もなく、ひとの命も、家も、商店も、工場も、港も、役所も、何もかもが、荒れ狂う水にさらわれていった。
ほんの少し前まで、ひとびとの日常があったのに、津波が収まると、そこは賽の河原に変わっていた。

私たちの支援は、生き延びたひとたちに、一瞬でもいいから、ホッとしてもらいたい、から始まった。
あの惨状を知って、それ以上のことができるような気がしなかった。

日本ではじめてレモンを栽培してきた、瀬戸内海の島生口島には、農薬も何も使わずかんきつ類を育てているひとたちがいて、季節の最後に、今、山に残っているものは、
ひとつ残らず被災地の人たちに食べてもらっていいと申し出があった。
愛知の山の中から、トラックと大型のバンとで、一晩中走って、朝早く現地に着き、早速全員で収穫して満杯に積み込んだら、今度は1300kmナイトランして、翌朝被災地に入った。
隣町の登米市に避難してきている南三陸町の人たち百人あまりに、最初のミカンを届けた。
大きな安政柑を両手に抱えるようにして、涙ぐんだ女性が忘れられない。
一日かかって、地域ごとに分散した避難所に届けて回った。

事態を受け止めることさえ難しくて、何も手につかず、呆然と立ち尽くしているひとたちの姿の多さに、私たちの想像の及ばない経験が存在したと感じるばかりだった。

かんきつ類の全てを配り終えて、私たちははじめて、被災地に入った。
二晩寝ないで走ってきて、当面の目標をはたして、のどかな早春の山里をドライブしながら、私たちの会話は、一仕事終わったような気分だったような気がする。
右カーブを曲がり下り、さらに左にカーブした途端、目の前に拡がり、見たものは、私がヒロシマで経験した、何もかもが焼き尽くされたモノより、はるかに生々しく、ただただ凝視する以外にはない、地獄というものがあるとすれば、まさにこのようなもののことだと思った。
誰もが言葉を失った。
誰が言うでもなく、辛うじて車を寄せられる場所に車を止めて、現場に立ち、ただ何かしら祈った。
営々と築き上げてきたもの、積み重ねてきたもの、ひとびとの日常といっしょに、全て破壊されていた。
ヒロシマと同じだった。
コウベもそうだった。

それぞれの土地には、その土地だけの魂があり、場の生命があった。
そこにひとびとの長い年月をかけて培った暮らしがあり、言葉があり、伝統と歴史が形成され、その土地だけの文化にまで高められてきた。
志津川は志津川だし、歌津は歌津、女川は女川、田老は田老だった。

1896年と1933年の、二度の大津波を経験した三陸地方が、津波の怖さを知らなかったのではない。
事実、港湾や海岸のいたるところに、高さ10mを超えるような、防潮堤や防波堤が築かれて、ひとびとは安心しきっていたとも言えるかもしれない。
鉄筋コンクリートの防災センターや、避難所もつくられて、町は安全なはずだった。
21世紀世界は、情報時代と言われて、確実な情報が瞬時に、どこまでも届く手はずだった。ひとびとは守られていて、安全だと信じていたのではなかったか。

甚大な被害を伴う災害とは、常に想定外の規模で発生するから、大災害なのではないか。
それに備えるためにこそ、学術研究の専門家があり、政治の、経済の、産業の、各種専門分野の専門家が存在したのではないか。
それらの膨大な叡智と尽力と、投下された多大な資金の結晶が、長年の念願だった、さまざまな防災施設の数々ではなかったか。
ひとびとの生命や財産を護り、文化や伝統を維持発展させるために、それらの専門家の職責があったのではないか。

何回か夜走りして通い、現場に立ち、現場を巡りながら、私たちの支援の方向と形が、次第にはっきりしてきた。
当面の急務である、瓦礫や屋内の泥の片付けや、物的支援、炊き出しではなく、このような悲劇を繰り返さないために、天災が人災にならないために、この生きた現場から、洗いざらい学びつくすこと、次のために準備すること、を中心の柱に据えることにした。その上でもう一度現場に立ち戻り、真の復興再生とは、誰が、何を、どうすることかを、自らに問い、余さず学び取り、共に考え、共に働き、共に答を模索することにした。
同時にそれらが、長い年月を必要とするであろうことから、継続的な支援の道を探ることともした。

成功したとは言えないが、私たちがいち早く、現地の山の木を使って、現地のひとびとの協働によって、短期的な仮設住宅ではない、永住も可能な復興住宅の提案をしたのは、私たちの方針の、ひとつの具現化だった。

しかし被災地の現状は、まだまだ復興というには、程遠い。
大手企業や、コンビニが、いち早く再開しているのに反して、市民の暮らしは、まだ方向さえ定まらないでいる。
それでも正月は、来てしまった。

大震災以後9ヵ月半、「想定外」の一語によって、職務に伴う責任の何もかもが問われることもない現状は、失われたものの大きさを思うにつけ、不可思議きわまりない事態と言わざるを得ない。
また同時に、想像することも不可能な喪失の真っ只中にあるひとびとと、ほとんど何も喪失しなかったに等しい善良なひとびととを、「絆」の一語でくくって、生暖かい空気で包み込もうとするマスコミや、言葉で生きるひとたちの、安直な危うさも、何かを生み出すエネルギーになるとも思えない。

復興とは、あの望まない死を遂げたひとびとの無念さや、希望や、夢や、志を、体現するものでなければならず、それらのひとびとの累々たる亡骸の上に構築されることを忘れてはならず、それ故に、生き残った者たちの目の前の利益に奉仕するものであってはならず、ましてや巨大災害や、それがひき起こした大悲劇を、願ってもないビジネスチャンスとみなすような者たちの荒稼ぎを許すようなものであってはならない。

疲労困憊の極にある現地のひとびとにとって、真の支援とは、そのような復興への長い道のりの同行者であり続けることではないか。
どこにいようと、「明日はわが身」の私たちの支援は、自助に対する共助の形をとって、今始まったばかりだと、私たちは自分の心に誓う。
そして、共に誓い合えるひとびとの輪が、もっともっと大きく強固になっていくことを、心の底から願っている。

フクシマでは、もっと無責任なことが、起き続けている。
いちばん伝えられなければならない情報が、隠蔽され続けてきた。
形も見えず、無味無臭の放射線に、怯えることさえ知らないままに、ひとびとはなすすべを知らず、何も知らされないで右往左往してきた。
もう10ヵ所以上も、避難先を移り歩いているひとたちがある。
この先がどうなるのかもわからない。何も見えない暗黒の中にいる。
住み慣れた家に戻りたい、と願っていても、それが実現しないのかもしれないと、限りない不安にさいなまれている。
口先だけの安心が、振り撒かれている。
外部被曝のこともよくわからないまま、内部被曝も、はっきりと知らされないままに、進行している。
この先、何がどうなるのか、何年続くのか、何十年なのかもわからない。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと、世界で日本だけが経験した、この深刻な放射能被害に、国や県や専門家たちの、真剣に対応しようとする真摯な姿勢や対応を、誰も感じていない。究極の無責任が続いている。

私たち日本人は2011年、国家から、行政から、経済界、政界、産業界、学問研究の世界から、棄民されたと言っても、過言ではない。

私たちは、自立して、自律的に、協働して生きるよう求められている。
原発が要らないのなら、自分たちの力で、それを取り除くようにしなければならないと、私たちは教えられた。
誰かにお願いすればいい、のではないと教えられた。

自助と共助の輪を広げよう。

春の来ない冬はない、としても、どんな春を迎えるかが問われている。
無責任で、その場しのぎの、投げやりな春を迎えるくらいなら、まだ冬の寒さに耐えることを選ぼう。

東日本大震災から1年目の3月10日には、現地から遠い愛知県でも、これから続く長い支援のための「菜の花コンサート」が開かれる。
私たちはここでも、既に風化し始めた東日本大震災やフクシマが、まだ何も終わっていないことを、多くの人々に伝え、明日はわが身と覚悟を新たにし、東日本大震災やフクシマへの継続的支援が、遠くないいつの日か、そのまま自分たちに跳ね返ってくることに、豊かな感性を働かせるよう呼びかける。

共助は、いつかは自助になる。

そして、春が来る。

(Text:Leon Kuroda)