生命を養う。〜「食べる」を大事にしたい〜

ひと昔前までは、「食べる」の対極に、「飢える」というつらい現実が見え隠れしていた。だから今でも、「食うのが精いっぱい」とか、「食えさえすれば文句は言わない」という言葉を、まだまだ耳にする。
その反面、雑誌やテレビの世界では、「おいしいものを食べる」さえ扱っていれば間違いない、が続いている。
「グルメブーム」は、まだまだ衰えを知らないし、それにあやかって「B級グルメ」も大流行で、なかなか廃れそうにもない。
一方では、メタボとか、肥満とか、塩分や脂肪の取りすぎ、ダイエット、食養生、医食同源などが語り尽くされながらも、他方では、「美食」や「食の贅」を求め、レストランや外食の情報が飛び交う毎日は変わらない。

一日4卓完全予約のレストランや、一見さんお断りの料亭にはじまり、街のラーメン屋やお好み焼き屋にいたるまで、「外食」のことばかりが語られる傾向は、メディアと外食産業の、食の現実と本質を隠蔽するタイアップのようにも見えて、眉唾なだけでなく、要警戒のような気もしてくる。
「食べる」の情報が、これほどまでに溢れているのに、「食」の、いちばん大切なことがほとんど語られていないのは、実はここに「食の真実と現実」が隠されているからだ、と私たちに教えてくれているのではないか。
それぞれが一個の生命体である私たちは、他の生命体を食べて自分の生命を維持している。またそうしなければ、自分の生命を養い、維持することはできない。

「生命が生命を養う」という、この事実には、「生命の力」「力ある生命」という言葉が内包されている。つまり、躍動する生命、活力ある生命でなければ、躍動する生命、活力ある生命を養うことはできない、ことになる。
となると、「おいしい」ことを抜きにしては食を語れないにしても、「何を食べるか、食べないか」が、「食べる」の根幹だと言ってもいいのではないだろうか。
とは言うものの、今、私たちの身の回りにある食べものは、どれもこれもおいしそうなものばかりで、何ひとつ問題がありそうにも思えない。

この「こぎれいさ」、「整った美しさ」、「鮮やかな彩り」、「いつまでも腐らないつやつやした新鮮さ」、「安くておいしい、出来合いの食べもの」、この、どれもこれも何ひとつ問題はないように見えることが、不自然だと感じる習慣や感性は、いつの間にか私たちの体内から消えている。そしてそれが「あたりまえ」になっていて、そうでないもののほうを不自然に感じたり、品質が劣っているのではないか、おいしくないのではないか、と考えるようにさえなっている。
私たちは今、これらの「食の進化」と考えるようになった現実に眼を向けて、光を当ててみよう。
ほんとうにそうなんだろうか。
あの「ほとんど同じ形と大きさの果物や野菜」、「いつまでも腐らない加工食品」、「つやつやの色どりと新鮮さ」に、ほんとうの生命の力が宿っているのだろうか。

食の生産の現場から、食の流通の現場、食の加工の現場を経て、「食べる」に至る過程を辿りながら、重箱の隅をつつくばかりで、本質を見失うことのないよう気をつけて、私たちの全てが「生命の力みなぎる食べもの」に、出会えているのか、出会えるのか、出会いにくいとすれば、なぜそうなのか、どうすればそれが可能になるのか、をいっしょに考えてみたい。

どうやら謎を解くカギは、何かしら「白い粉」とも呼ばれている、ケミカルな物質群にあるらしいことはわかりかけている。
そう言えば、化学合成された、たいていの農薬も、食品添加物も、「白い粉」だった。
それに加えて最近では、生命体に生物学的操作を加えることが、大流行している。
これらの化学物質が、生物生命学的操作が、水に、土壌に、大気に、人体に、他の生命体に、生物多様性に、どれくらい大きな影響を及ぼすのか、環境負荷実験や生体実験は、始まったばかりで、まだ正確にはわからない。
しかし、「わかった時には遅い」のかもしれない。
またこのような環境負荷実験や生態実験が、人類の未来にとって必要なのかどうか、ほかに理由があれば許されるかどうかの議論は、社会の片隅の一部の人たちの間では始まっていても、地球規模できちんと議論が尽くされたことはこれまでない。

いずれも、国際的な多国籍(あるいは無国籍)巨大企業が、巨額と言えばあまりに巨額な利益を生み出す源泉になっていることと、これらの不可思議な事実とは無関係ではなさそうな気がする。

ローザのわくわくキッチン→

This article has 1 comment

  1. 最近、無農薬とか減農薬とか聞くのですが、どう違うのでしょうか?
    減農薬って聞くとなんだかそこそこ安全な気がするのですが・・・