ヒロシマの生き残り・黒田レオンが心の底からみなさんに呼びかけます
来年のこの日こそはごいっしょにこの場所に立ちましょう!
2014年 8月6日 69回目の広島原爆記念日
ー 2015.0806 ヒロシマ70年の記念日に向けて、今ヒロシマは ー
あの日から69年が経った。被曝生存者の最低年齢も、来年には全員70歳を超える。
急激に減少していく生証人の数。今のうちに、ひとりでも多くのひとに語り継いで、それを反核のエネルギーに換えなければ、再びヒロシマ、ナガサキ、フクシマを繰り返すことにならないかと、土砂降りの雨をついて、夜中ハンドルを握ってやって来た。
この一年、私たちの身の回りを吹き渡る風向きが、急速に変化して、なんだか戦争の匂いまで漂っている。私たち被爆者に課せられた使命は大きいと、実感する。
核兵器だけではない、原発も、核施設も、核艦船も、廃絶の日まで、私たちは生き続けられるのだろうか。
そんな世相を反映してか、妙に警察の警備が、ものものしく厳しい。
午後になると、機動隊も完全装備の乱闘服姿に変わり、繁華街のそこここに立ちはだかる。この日に似つかわしくない、異様な光景。
集会の後は、シュプレヒコールしながら、中国電力本社まで雨中のデモ行進。
ヒロシマだけでは足りず、フクシマがあってもなお足りず、新しい原発建設を強行しようとする政治や企業に、参加者の怒りが爆発しそう。やりきれない想いを懸命に抑えるひとびとの列が続く。
爆心地近くにあって、辛うじて全壊を免れた旧袋町小学校の校舎の一部が、現状保存されている。
ここは応急の救護所になった場所。消息の知れない身内や友人を探して、直後から多くのひとがやって来て、壁に伝言を残して行った。当時5歳の私も、爆心地で勤労動員されていたはずの中一13歳の兄貴(と言っても、ホントは叔父)を探し求めて、何度もここを訪れた。
むっと暑く、直視するにはあまりの姿、うめき声や叫び声と匂いが、今さらのように、眼に耳にこびりついているのに、それが懐かしいように感じたりして、妙な気持がした。
直後から活動していた(らしい)米軍の原爆被害調査施設ABCC。
ここには何度も連れてこられた。授業中に米軍の憲兵MPがふたり、突然入ってきて、私の両脇に立ち、Stand upと命じる。立ってついて行き、ジープに乗せられて、ここに来た。
その建物が今もそのまま、やはり原爆被害の「日米共同の調査機関」として使われていることを知って、たいへんびっくりした。