国の存亡を賭けた戦争の為、一切が物不足の生活環境の中で、足並の揃わぬ裏切者もいるものだと知った。
我家を遠く離れ、工廠に働く女学生の昼食は、厚い木の爆薬箱に入って配達される。学生の当番がそれを、各自の弁当箱に同量になるように分ける。
だが木の蓋をとり豆粕入りの御飯の中に杓子を入れると、或る日太い薪が数本放り込まれており、その薪をかくすように御飯を入れてあるのは、薪の重量と同じ目方の御飯を誤魔かしたのである。これが他の工員の昼食への仕打ちなら騒ぎになるが、お遍路さんのくに松山の大人しい小娘たちは、じっと我慢して取り出した薪のまわりに付いている、御飯粒に混る砂を箸で除いて弁当箱に入れるのであった。空腹な生徒には貴重な飯粒なのである。
抗議したくとも広い工場内には働く者ばかりで当面の責任者はいない。
今日の命の保証も無い少女達に、こんな仕打ちをする者も同じ日本人だというのが無念であった。
戦時、米・野菜等は極度に不足していた。或る時は毎昼毎昼が葱のおかずである。塩気なしの茹で葱が何十日も続いた後は茹で青梅が続く。青梅の茹でたのが食べられるとは大阪で知った。炊事係は塩も横どりしていたのか、今こそふんだんに有る塩も当時は宝ものであった。連日の茹で青梅を種までしゃぶっても酢い味さへ無かった。そのせいか以来粗食には驚かぬ。
短い昼休み、工場裏に出ると、残飯で飼われている豚が丸丸と肥えている。一体この上等の残飯は、この工場の何処から出されているのかと不思議におもったが、豚に罪はない。
命がけの毎日に日本人同志で、これだけの不公平が罷り通っていた。
然し私達は、南に北に外地の野戦で飢えながら玉砕した兵士たちを思い、一心に早朝から旋盤を動かし働いた。自分達も微力ながら国を支えているという気概があって「欲しがりません勝つ迄は」を合言葉に頑張ったので「近畿地方動員学徒の模範である」と、陸軍大臣の阿南惟幾大将から表彰され「愛媛に城北高女あり」と学校の名誉は大いに上がった。その褒賞金の全額を、陸軍に寄付してしまう純真な少女達であった。