或る日曜日、また数人で奈良へ行った。静かな東大寺を仰ぎ見て、そして鹿に見られながら若草山へ行ってみると、焙烙を伏せたような山の姿が優しい。トコトコ登り斜面で昼御飯にする。
その日の御弁当の中身は、油を搾った大豆粕入り御飯に焼鮭であった。この頃はまだ良かったが後になる程食糧事情は悪くなる。鮭が余程嬉しかったとみえ今に覚えている。
若草山の天っ辺がすぐそこにありそうで皆で駈けた。すると此の山は幾重にも奥へつながり、とても頂上などありそうもないほど涯しない。私達は笑いころげてそこで草に腹這い、とりとめのないお喋りを楽しんで帰って来た。古き都の寧楽には空襲が無いので本当にのんびりできた。猿沢の池で背に乗り合っていた亀も、今は懐かしく思う。
それに比べ大阪の日常は大変であった。何しろ敵は物量を誇るアメリカであるから、夜の空襲で落としまくる爆弾、焼夷弾の数が半端じゃない。生きのびた人は奇跡と思う。
或る朝、真っ青な顔で出勤してきた工員が言う「昨夜の焼夷弾は道路を目がけた、一平方メートルに二発は落ちたと思う。とにかくアスファルトの道路がとろとろに溶けた。道へ逃げ出した人の靴は溶けた舗道に吸い込まれ、足はまるで泥濘の中にめり込んだ様で抜けずに皆焼け死んでしまった。俺は地下足袋の上に草鞋を縛りつけていたので何とか逃げて助かった」。もう家族も無い、帰る家も無いから工場にいて働くという。
工場に居れば、まだ生きている仲間がいるし、仕事が有り飯がある。
石に噛りついても戦が止む迄は頑張るしかない、もう勝つとは私らでさえ思えない。
外地に放り出され戦っている兵士らを、見殺しには出来ないから工廠で働くというのだが、此の大阪と奈良の大差を見た私は「平和、平和」と叫んでみたかった。