弾丸除けも付けず、ガソリンも充分に積めず、基地へ帰還を想定しないあの悲痛な零式艦上戦闘機。世界一巨大だったかと思うが護衛の飛行機無しでは戦えぬ戦艦大和、そして哀れな人間魚雷艇などを作った軍の頭脳は、ある時、昼寝から覚めたのかといような「風船爆弾」を思いついた。
直径十メートルくらいの気球を紙で製作し、それに爆弾を吊り、偏西風を利用して敵国アメリカへ向け飛ばすという。
この悠長なものが武器というのだから、聞かされた時はびっくりした。この風船が何とか到達して、アメリカの空をぷかりぷかりとゆくさまを想像してみても、とても戦力になると思えなかったので、心理作戦であろうと納得した。昭和十九年、私十四歳である。
この作戦は絶対秘密である、と上層部から私達は念を押された。この制作には、愛媛県立松山城北高等女学校三年生と、宇和島高等女学校生と山下高等女学校生が動員され、大阪陸軍造兵廠に赴いた。
この造兵廠は大阪城の東側、三十五万坪という巨大な兵器工場であったから、私は「日本の力」をひしひしと感じ、よし、力の限り働いて命がけで自分の国を守るぞ。もし戦後を生き延びたならば「日本の文化を学びたい」と決意したことを鮮明に思い出す。
何はともあれ、風船の紙作りは我ら城北高女の担当となった。宇和島高女勢は、それを貼り合わせ丸くする側になった。
私らは、朝早くから電車で工場へ出勤し、真冬に半袖シャツ一枚きりで汗まみれの毎日となる。畳一枚くらいな大きさのトタン板の四面体にスチームを通し、この乾板にコンニャク糊で和紙を貼る。この和紙が何とも薄いので苦心した。伊予の紙で極上物という。破らないように、皺を作らぬようにと、乾板と同じ大きさの一枚の薄紙を、くるくると棒状にし左手に持ち、右手の大刷毛に糊をつけ右隅から乾板に貼ってゆく。
左手の薄紙を広げつつ右手の糊刷毛を上下に動かす。貼りつけたら乾板を回転させ、次の面に同じ作業をする。紙の繊維を縦と横とを交互にし、糊も薄くから濃いのへと、一枚ずつ貼り重ねてゆく工程を間違えぬようにと一心で、屋内の暑さを気にせず働いたが、外の雪を握って食べたこともある。
こうして、金属板のような堅い原紙が出来上がると光学検査にかける。アメリカ迄飛ぶのだから、無傷でなければ爆弾など提げれない。然し、少々の傷は補修して使用した。
油断すると手の切れる原紙を裁断して、風船の形に貼り合わせた宇和島高女勢の苦労は大変だったろうに。今、出逢ったとしたら、彼女らの両手をやさしく撫でてあげたいと切に思う。
工場の中は濛々と蒸気が立ちこめ、足もとは水浸しで働くから、私らの摺り減った下駄は濡れ通し。蒸し風呂の中にいるような毎日なので、肺の奥まで湿って重く何人か病人も出たけれど、戦争の終る迄は頑張るしかないと、学徒我らは真剣だった。