春風やふね伊予に寄りて道後の湯 極堂
伊予の国の風土記にいう、-湯の郡。大穴持命は見て後悔し恥じて、宿奈毘古奈命を活かしたいと思い、大分の速見の湯を地下樋によって(海底を渡して)持ってきて宿奈毘古奈命(すくなひこなのみこと)に浴びさせたので、しばらくして生き返って起きあがられて、いとものんびりと長大息して「ほんのちょっと寝たわい」といって四股を踏んだが、その踏んだ足跡のところは、今なお温泉の石に残っている。-と。
宿奈毘古奈命はこのいで湯に浸り、病いが全快なさった喜びのあまり、さてもさてもと石の上にあがられ力強く、短きみ足を踏ん張って舞われたという伝説の石が、玉の石と呼ばれて、今も温泉本館の北東の角に、しっかりと囲われて鎮座している。
かの小さな小さな命の、エイヤエイヤの掛け声が弾んで出そうな程、丸い愛嬌のある石である。
この少彦名命(学校ではこの字で教わった)の像は道後温泉の一階「神の湯」に大国主命のお腹にしっかりと納って楽しそうに湯治客を眺めていらっしゃる。たとえ千年の長湯をなさろうとも、決して湯当りなどはなさらぬ湯の神様なのである。
かの万葉歌人、山部赤人も此の湯を尋ね来て下さり長歌を遺された。
筆は日下部鳴鶴といわれ、その見事な漢字を是非一見して欲しい。ついでに坊ちゃんの「湯の中で泳ぐべからず」の礼も見よう。
風土記は尚も、景行天皇と大后の八坂入姫、仲哀天皇と神功皇后もお二人で伊予の石湯に、遥かにも行幸され給うたとある。大昔のことは雲か霞か、はたかげろうかと、捉えどころのない心地がするけれどさにあらず、手がかりさえ有れば、古色蒼然の歴史の一齣を一瞬にして手もとに引きよせる事が出来る。
道後の湯には聖徳太子の「温泉碑文」が残っている。左の通りである。
―その時、聖徳太子は湯の岡の側に石碑を立てて記していう。
法興六年十月、歳は丙辰に在り。わが法王大王(聖徳太子)と恵慈法師および葛城臣とは夷与の村を逍遥して、まさに神井を觀て、世の妙験を歎じ、思うところを述べたいと思い、いささか碑文一首を作る。
惟れば夫れ日月上を照して、私あらず。神井下に出でて給からざるなし。万機所以に妙應し、百姓所以に扉を潜る若乃照給私なきは何ぞ寿国に異らむ。華台に随って開合し、神井に沐して疹を癒す。謳ぞ花池に浴して化溺するに舛はむ。山岳の厳崿を窺い、反て子平の能く往くを冀ふ。椿樹相廕うて穹窿たるは、実に五百の張蓋を相す。臨朝に鳥啼いて戯れさへずる。何ぞ乱音の耳に聒しきを暁らむ。円花は葉をかさねて映照し、玉菓は彌葩る。其下を経過して優遊すべし。豈洪灌宵夜の意を悟らむや。才拙にして、実に七歩に慚づ。後世の君子嗤笑すること無ければ幸也。
これ、温泉碑碑文といわれるものの訳であり、敢て旧字のまま記しておく。漢字は読む楽しみがある。
学校で教わる漢字が減り、勿対ないと思う。たった一文字の漢字の中に時として、凄い歴史が潜んでいる。一字で多くの意を現すときもある。漢字を減らして、大切なものを随分と無くしてしまった。今一度、残念と喚びたい。年少期の頭脳には途方もない記憶力が有ることを、教育関係者は知らないらしい。
扨、聖徳太子は、風光明媚な伊予の風土や良質の出で湯を賞讃し、天寿国(極楽)と異ることなしとまで書き残して下さったのに、残念ながら此の碑は現存しない。
過去幾たびも探されたが、今に至るも見つかっていない幻の碑である。その湯の岡は伊佐爾波と呼ばれたので、現在はその名を冠した伊佐爾波(いざにわ)神社が湯の町の高みに現存し、日本に三つしかないといわれる八幡造りの立派な社殿は重要文化財である。
「いざにわ」とは、聖徳太子の碑文を見ようと、いざ行かなと誘い合うて、大勢の人が見に来た為に付いたといわれている。
この碑がもし見つかれば、わが国最古の金石文だそうである。
この碑文の法興六年とは、紀に見えない聖徳時代の年号で、崇峻天皇の四年を元年として数えてゆくという。
太子の入湯せられた頃の、即ち五九六年の道後は、椿の木が枝をさしかわす程たくさん自生しており、その赤い花白い花の咲くさまは、さながら極楽のようであったとか。
まだある、この出で湯は日本最古の慈恋心中の舞台でもある。聖徳太子より百四十年の昔、帝位問題の政争に敗れたといわれる軽太子と、允恭天皇の皇女、衣通姫御兄妹の切ない話も、湯けむりの中に残されている。
まだまだある。六百六十一年に斉明女帝は、百済救援の為一月六日築紫へ向け御船出発とあり、十四日伊予熟田津に御到着、そのまま三月末迄岩湯に御逗留とある。
あの大昔に、自動車や飛行機が無くても結構、人は行きたい所へは行ったもんだと感心する。希望こそ活力である。
そんなわけで一茶も来た、寛政七年の一月伊予へ花見にとて句友をめぐっている。
その頃はまだ露天風呂だったらしい。湯の囲いはやがては造られて、牛馬の為の「馬湯」というのも設けられたと記録にある。
そこで一茶は一句をものす、その野趣に富んだ景色そのままを。
寐ころんで蝶とまらせる外湯哉 一茶
そんな庶民と一緒では畏れ多いと後年、明治三十二年に皇室専用の湯殿「又新殿(ゆうしんでん)」が建てられた。
手前から玄関の間、御次の間、玉座の間となっており、その隣に警護の人の控える、武者隠しの間があるという。
桃山時代の優雅なたたずまいで、そこにも無論、大国主命と少彦名命を彫刻した湯釜があるそうです。
ちなみに昭和天皇は昭和二十五年に御来浴なされておられます。
なお「坊ちゃん」こと夏目漱石は、この道後温泉を建築した翌年の明治二十八年の春、松山中学校英語教師として赴任して来たので、なんとピカピカの温泉、風呂好きにはさぞかし本望であったろう。八銭で天目茶碗のお茶と菓子付きで、先生の嬉しさのあまり、つい湯舟で泳いだとて良いではないか。ちなみに漱石の月給は八十円だったそうである。校長は六十円だったらしい。
その十年後、日露戦争の捕虜の大部分をこの松山の地に収容し、彼らは大切にされていたという。
その時の松山ではロシアの捕虜に温泉入浴を許し彼らは大喜びで大きな体を浴槽に浸し楽しんだという。泳いだかどうかは不明。
なお彼らの為に病院を建てて診療に当り、市内の上流婦人の篤志家たちが看護を引きうけたので、親切な松山の名は世界中に知られるところとなったそうな。ここで一言、声を大にして言っておきたい。当今の世相は、日本人が日本を貶めること甚だしいがどうせ突っつくなら良いものを見つけ出せと言いたい。
そんなふうで、なんだかんだで我が道後温泉は、我が国最古の出で湯として、三千年の歴史を持つと称えられ、今日に至っている。
発祥は神代のころ。脚を痛めた一羽の白鷺が、岩間に湧き出る湯で傷を癒したとの伝説からであるらしい。それで昔は伊予の岩湯といわれていた。
足なえの病いゆとふ伊予の湯に
飛びても行かな鷺にあらせば 子規
その故に、この城郭式三層楼の屋上に一坪ながら、風趣ある太鼓櫓をつくり振鷺閣と名づけた。その鷺よ、もって冥すべし。
その櫓の周囲の窓は赤いギャマン障子で、夜の灯が入ればこれまた何とも美しく、是非この明治を御一見あれ。
その太鼓、櫓の天っ辺に、大きな白鷺が一羽、今まさに天を望んで飛び立とうとしているのだ。
だが、いまだに飛んだためしは無い、何だか身につまされる。
ところで、温泉入口に投句箱が皆さんを待っている、投句用紙を備え付けて、投句箱は松山市内に約四十箱あるそうです。
道後温泉を訪れる旅のお人は、すべて俳人と見なされるのを覚悟しなくてはならないかも。
どうぞ、旅の記念に楽しい一句を御投函くださいましな。
巡礼の杓に汲みたる椿かな 子規