或る静かな日、何しろ工場が無い松山は、いつも寂としていた。校庭に整列して、先生の指示を受けている私達に、いきなり米軍戦闘機の一斉掃射が始まった。
性能の良い米機は、うんと高空から侵入してくるので、日本側は敵の機影を把握できない。その日も、まだ警報が出ていなかった。遮蔽物の無い校庭から我ら学生はふっ飛んだ。素早く堀際の防空壕に跳び込む者もいたが、そこ迄行っても全員は入りきれない。足の遅い私は校庭の桜の幹にへばりついた。耳をそば立てていると、バリバリバリと凄まじい発射音が出る。ヒュルヒュルと音を曳き弾丸が、すっ飛んで来て、足もとの地面にバシバシと突き当たる。
ヒューンと金属音を立て、敵機が上昇反転する、とみるや忽ち機首を下げ校庭に激突するかの如く、我ら女学生を目がけて射ちまくる。人狩りである、いや、ゲームなのか。大きな眼鏡をかけた敵兵の顔が掴めそうに見える。彼らは、一人も残さず殺したいと見えバリバリヒューヒューヒューンとばかり、反転反復し掃射しまくる。大阪時代この日本には、既に油も弾丸も無いと知っている我らに、敵さんは実に勿体ない弾丸の無駄使いをしてみせる。しかし、反転する時だけは射てないと私は気付いた。よしっ、それだっ。
私は、小さな目をキリキリとねじ上げ、より安全な場所を探す。次の反転のヒューンという二秒ぐらい(と思った)の間に、そこへ駆け込む。
恐くはない、犬死なんかしてたまるか。何が聖書の国だ此の野郎ッとだけ思っていた。誰も助けてはくれない今、自分で判断するしかない。よく生きのびたと今にして思う。祖霊と神仏のおかげである。
後日、その校庭で不発の機銃弾を拾った。意外に大きく長く、ずしりと重い。こんなものがチビ助の私に命中していたら、骨なんか砕けとんでしまう。
(武器を持たない十五歳の少女たちを、白昼、執拗に狙い撃ちまくった米兵らは、戦後どんな顔をして、教会の礼拝に行ったのであろうか。あの時には全くの鬼畜米兵であった。戦争とは、人格を交えてしまう。戦後になって戦中の事を論じる時は、これを必ず念頭に置かねばいかんと思う。)