俳句人に限らず世は論戦好きが多い。今から百年前を見てみよう。九月五日の読売新聞を引用させて頂く(於松山)。
一九〇八年(明治四十一)一月の本紙には、時の内閣総理大臣、西園寺公望のこんな手紙が紹介されている。
「書くにも習ふにも容易であり、かつ文明世界共通である所の羅馬字を以て、我が国語を写すの外はないのであります」
総理大臣がこうまで言うのだから、投書欄も漢字無用論議で盛り上がった。
「漢字といふ厄介物のために、どの位我国民は、その智力の発達を妨げられているか知れない。断然たる手段を取り、数年の中に、全廃せられんことを、学者及び為政者に勧告する」 (大正元年8月11日)
「手紙をローマ字ばかりで書く人が多くなったし、外国から来る郵便物の宛名はすべてローマ字。郵便局員はローマ字を知らねばならぬ事に早く定めて貰ひたい」 (同9月4日)
過激な意見への反論が面白い。
「漢字全廃説を拝読しました。ドーカ以後は漢字を一つも遣はずに御説を述べて下さい」 (同9月8日)
「些とした事の刺激に会って、お調子に乗るのが小人の常だ。漢字の力を借りて漢字を排斥せんとするのは、犬を縛って置いて之を追はんとするのと同じである」 (同8日)
などなど。これを読んで敗戦後にも漢字全廃論が囂しかったことを思い出す。ローマ字を国字にしろというのだが、それも立派と呼べそうな学者たちがである。凡人の私でも漢字を無くしたら、日本の歴史も古くからの文化も、現代の生活と心で繋がらなくなってしまうのにと思ったものだった。
漢字が全廃されなくて本当によかった。
四季に情緒のある日本の、日本人で本当によかった。