おへんろの国は灸どころ。一昔まえの道後温泉は、土産物やの軒毎に、ほわほわ、ふかふか、蒲の穂絮か綿菓子などの如く、まん丸く盛り上げて「湯ざらしもぐさ」と貼り紙が下がっていた。秤り売りであった。
最近は、松山でもとんと目にかからぬ。思えば、あれは熱くない灸であった。真綿のようで熱さの焦点がなかった。替りにこの頃は「釜灸」とて、石で叩き潰した熊の、ちっさくてぺっちゃんこの情ないのが売られている。これがなんと、熱いの熱くないのって二・三秒が程は発狂してしまう。蚊が刺したなんてものではない。すえて下さる人を恨みたくなる程だ。
子供の頃は良かった。軒下に展べた茣蓙の上に転がされては、たびたび灸をすえられた。親とは、そんなものだった。私がよく病気をしたからである。「この子は十八くらい迄の命じゃ」なんて、母を驚天させたせいもある。その母も今は九十余歳で、元気でいてくれるのは嬉しい。湯ざらし艾の灸が熱いのは、最初の四・五秒くらいなのだが、それが子供には我慢できない。大声で泣きわめき涙と鼻汁をゴザに塗りたくる。それを聞きつけて、隣の小母さんも「ほいじゃ、うちも」と、一人・二人児をひっぱって来て転がす。すばしっこい児は前もって、気配を察して、そこらには居なくて、鈍くさい児やチビッ子が掴まってしまう。
それらがゴザの上に腹這いにされて、足を一斉にばたつかせ、まだ灸の始まらぬうちから此処を先途と泣き喚く。(だが、こんなものだと弁えていて逃げ出す児はいない)親たちは手慣れているから、世間話をしながら艾のはしを抓みとり、大豆粒より大き目の円錐状にひねり、指先でちょいと唇のはしをなぞって湿し、その湿りを児の背の灸点に移すや、すかさず灸をのせて火を点ける。
灸が大きいので、すぐには熱くならない。じわじわと焦げてくるが、背中は本人には見えないから、今か今かと案じていてサアそれから泣くのだが、悠長なことである。背中の五・六ヶ所は、同時進行しているのだが、作業は母親一人だから暇がかかる。
灸を始めていてもお客があれば三十分で済ましてくれた。すえ始めて直ぐやめるのは、よくないとされていたので来客もしゃがんで待っていてくれる。なもし、なもしで普通は、まるまる一時間すえられる。
家事と世帯のやりくりと、子供らの世話をしておれば良かった時代があった。
あの頃、子供たちは幸せだったと思う。質素でも、生活にゆとりが有った。女性の洋服に肩パットが入って、肩をいからせて歩きだしてから、世の中の変化が早くなり、人の心が乾き言葉が慳貧になった。
思いやりが無くなると、老人と子供が淋しい目に合う。昔は、足りないものは分け合ったし、多くを望まなかったが、現在は譲り合う精神が失われたから暮らし難い。
物があり余って、大切な家庭の良さを失っている。この有様を見てもっと暖かい風に作り直そうと、母たち女たちは結束しないのか。子供を蝕むものが有り過ぎるというのに。今、一番急がれる大切なものを探そうと何故しないのかと思う。
ところで、灸の話はまだ続けたい。何しろ、あの線香は割箸のように太く丁度一時間もつのです。だから子供らは、背中に火を点けられたらもうアカン、そのうちに涎をたれて寝入ってしまうしかない。
まだ遊びに行きたい子は、早く灸を終わらしてもらおうと、腹這いのまま、せっせと艾をひねくり、自分の背にすえてもらう小さな円錐を、小さな指でひねり出すのです。その、とんがり帽のような艾が、ゴザのはしに、おもちゃの兵隊のごとく並んでゆくのを見て、母は暢んびりというのである。
「あんまり早よすえたら、やいとは熱いんぞな。ゆっくりすえるのが効くんぞな」
そして灸をすえたあとの、あの心地よさ。子供心にも灸の効用はよくわかっていた。赤ん坊の百日咳も、青年の肋膜炎でも何でも、あの町なら灸で治った。だが今もって私が小さいのは、弘法さんの教えに忠実な母が、焼きを入れ過ぎたせいと思っている。
昔の日本人にとって大切な健康法は灸治療でした。
二日灸旅する足をいたはりぬ 虚子