明日は我が身の桜ライン第1回植樹会のご報告

その場に居合わせたことを、心から感謝して、身体の奥底から喜びがこみ上げてくる、感動の植樹会から、無事に帰ってきました。

2012年4月13日(金曜日)夜2330時、出発地から参加の11名を乗せて、浜松を出発しました。
まるで航空機のビジネスクラスのような車内で、まだ見ぬ被災地の現在に思いを馳せながら、期待や不安や心配を乗せて、降りしきる雨の夜の東名高速道を、ひた走りに走ります。
途中、港北PAで、さらに東北道蓮田SAで、首都圏からの参加者が加わり、15名となりました。
さらに激しさを増したようにも思える雨をついて、バスはひたすら北を目指します。ようやく夜が明け始めた頃、バスは福島県に入りました。雨も小止みになりました。

途中の国見SAで朝食をすませて、さらに2時間。バスは東北道から三陸道を進みます。
この頃から、道路標識にも、石巻とか松島という文字が見え始め、内陸部を走っているのですが、車内には、これまでとは違う空気が流れはじめました。

石巻市内のICで、一般道に下りたバスは、しばらくして北上川の川岸を走ります。
震災当時に比べれば、ずいぶんきれいに整備された周辺の景色の中に、まだ残る津波の跡に、みんな口数少なにカメラを向け続けます。
やがて、新北上大橋が見えます。よく見ると、川の中に、破壊された橋の鉄のフレームが見えています。
橋のたもとから、いきなり見えたものは、想像もできないほど変わり果てた大川小学校でした。
誰もが声を失いました。
遺族のおかあさんたちが、日課にしていらっしゃる慰霊碑のお守りの作業の中、下車してすぐに慰霊碑にお参りしたときは、胸が詰まる想いでした。
河口から4km以上も上流のこの土地で、こどもたちや先生の生命が、こんなにも失われなければならなかったのか、すぐ裏の山の斜面を見ながら、悔しい気持ちでいっぱいでした。
一山越えた雄勝では、まだいくらか生々しさの残る光景に、「どうしてこんなことが」の声が、参加者の口から漏れました。

北上川河口一帯の壊滅した十三浜一帯を巡り、海沿いの浜と言う浜が、どこも同じように、建物の基礎部分だけを残して、すっかり失われているのを、続けざまに見た参加者から、「津波の直後から、こんなふうにきれいさっぱりしてたんですか」と質問が出たり、「まるで、もともとこんな光景の場所だったように見えて、現実感が乏しい」という声が聞こえてきたりしました。
私たちの日常との大きな隔たりが、被災地の、あまりの現実を、すぐには受け止めきれない、参加者のとまどいがありました。

南三陸の鉄骨だけになった防災庁舎では、3階建ての庁舎の屋上に逃げてさえ、ほとんどの人が津波にさらわれて亡くなった事実を、俄かには受け入れにくい思いで、みんな立ち尽くしていました。

そこから小高い丘を登れば、何事が起きたのかもわからないような風景の中をバスは走り、坂道を下って海辺に出れば、今はもう見慣れた風景になってしまった、あの基礎部分だけが残って続いている集落、そこが今回、明日は我が身の桜ラインの最初の1本の桜を植える、馬場中山地区でした。
ワカメ漁で、人手どころか、猫の手も借りたいほどの忙しさの中で、その働き手の中心のはずの人たちが、私たちを迎えに出ていただきました。「いちばん忙しい最中に来て、ゴメン」と言うと、笑いながら「そうだヨ、ほ
んとに」と応えてもらって、却って、場の雰囲気を和らげてもらいました。

 

海を眼下に見下ろす小高い場所から、さらに斜面をよじ登った場所が、
第1号の桜の、新しいふるさとでした。

 

何かしら儀式めいたことのひとつもしようかと、地元宮城の酒を1本持って行ったのですが、「サクラに飲ませるより、自分たちが飲んでサクラ色になるほうがいい」とのことで、早速、土地の人に「植えるのはココっ !!」
と決めてもらって、作業に入りました。
大した時間もかからず、千年後のひとびとに「千年前、ここまで津波が来たほどの大災害があったんだよ」と伝えてほしい、東北地方に固有のエゾヤマザクラ種の、千年桜の植樹が終わりました。

昨年の3月11日を、この場所で、身をもって経験した人たちの言葉には、とても表現できないほどの重さがありました。
「津波は、波が来るんじゃないんだ。瓦礫と土煙が、塊になって襲いかかるように来るんだ。」
「今立っているここの高さと同じ高さまで、一面海になるんだ。見たこともない、信じられもしない風景だった。」
「高いところから見ていると、自分の家が、まるで大きな洗濯機の中で、渦に巻かれているようだった。」
「私たちは昔から、大きな地震が来たら、とにかく高台に逃げろと教わってきたから、大して犠牲者も出さずに済んだ。」
「第一波の津波が、前の海の方からやって来て、屋敷の前半分が持って行かれた。今度は、第二波が、後ろの山側から道路沿いにやって来て、屋敷の後ろ半分を持って行かれてしまった。」

私たちは、今回最初の植樹にやって来て、自分たちが何かすると言うより、何もかも教わるばかりだったような気がします。
自然の力の、想像をはるかに超えた大きさのすさまじさ、これには未だに実感の伴わない苛立ちを感じますが、私たちの想像の及ばないことが、現実に存在することを、否応なしに受け入れることになりました。

気仙沼で見た、瓦礫の中に横たわる遠洋漁業の大型漁船も、今ではまるで、そこに置いたようにも見えますが、これが東日本大震災の、ひとつの現実だと、私たちは自分に言い聞かせるようにして、納得しようとしています。

私たちにとっては、これらの信じがたい自然の猛威は、「明日の我が身」と感じて、ここにやって来ました。
亡くなった方々に対して、深い哀悼の気持ちを捧げながら、失われたものへの、大きな愛惜の気持ちを抱きながら、「明日は我が身」と心に刻んで、被災地を後にしました。

それにつけても、どうしても最初の1本は、馬場中山と心に誓っていた私たちのわがままを、快く聞き入れて、希望を叶えていただいた、馬場中山のみなさんに、心からお礼の言葉を申し上げたいと思います。ほんとうにありがとうございました。

これから、馬場中山を起点に、北に1本、南にまた1本と、青森から千葉までの津波到達点に、千年の記憶を伝える桜ラインが、いつの日か完成する日まで、私たちは、倦まずたゆまず桜を植え続けたいと思っています。
被災地のひとびとが、その記憶を後世に語り継ぎたいと願ってくださり、候補地を自ら選定していただいて、私たちが植えに行くことを続けるつもりです。

また被災地以外の私たちは、一方で「明日は我が身」と心に刻み、不断に備えながら、他方で植えた桜を、それぞれに「マイ桜」として、これから末永く愛し慈しんで、被災地の真の復興を願い、ささやかな貢献ができるよう心がけるつもりです。

これまで見ず知らずだったひとびとが、「明日は我が身の桜ライン」の推進を通して、固く結びつき、本当の意味の絆を深めることができるよう、ゆっくりと確実に前進したい思います。

なお次回現地行きは、6月1日(金)夜出発、2日(土)、3日(日)夜帰着、を予定しています。
奮ってご参加ください。