高速移動から低速移動へ〜21世紀型交通

20世紀型の国づくり、高速交通網の整備を見直し、
環境の21世紀は、都市中心市街地から始めて、
日本中に「自転車専用道」網の整備こそが、
ふさわしい !!

最近とくに、新聞やテレビで、自転車がやり玉に挙げられることが多い。
事は、今始まったわけでもないのだが、「歩道を、わがもの顔に走る自転車が危ない」、「ブレーキのないバイクが、猛スピードで走って来て、事故」、など、とかく「自転車は、走る凶器」という論調が目立っている。
環境の21世紀象徴する代表格として、にわかに脚光を浴びたのも束の間、今度は、警察による大掛かりな取締りの対象となっている。

確かに、バイクの側にも、問題がなくもない一面はある。
作手のような、山間僻地の交通量の少ない公道で、車も歩行者もいないと決め込んでいるらしいライダーから、傍をすりぬけざまに「バカヤローっ !!」と怒鳴られたりすることもある。
渋谷の駅前の歩道で、前から突っ込むように走ってきたピストバイクに「どけーっ !!」とにらまれたこともあって、屈辱的な気持ちと、同じバイク乗りとして、顔が赤くなる想いで
恥ずかしかった。
私たちのバイクライダーとしての、マナーやルールの欠如や、やさしさや節度のなさが、多くの人々を傷つけている事実から、目をそらしてはならないと思う。

しかし、それらの改善されるべき事実の存在と、新聞やテレビの報道の姿勢や論調との間には、相当な開きがあるような気がする。
社会の公器としての報道機関が、取締りを強化しようとしている警察発表を受け売りして、バイクの凶器性だけを論じるのは、決して的を得た報道とは言えない。
地球温暖化やエネルギー問題が、21世紀に、人類が乗り越え、解決に向かわなくてはならない根本課題のひとつであることは、既に衆知の事実であり、バイクが、とりわけ都市部での、中近距離移動手段の中心の一つになるであろうこともまた、衆知の事実と言っていい、とすれば、誰にとっても安全で快適なバイクでの移動を、どうすれば確保できるかに、焦点が絞られなければならない。

いったいバイクは、どこを走ればいいのだろう。
ひとが歩くことが前提の、歩道だろうか。
車と言っても、自動車専用道のように誰もが思い込んでいる、車道なのだろうか。
歩行者用道路でもない、自動車用道路でもない、第3の道は、ありえないのだろうか。

ほとんどのバイク乗りは、今は、車道を走っている。
誰もが、生命の危険を感じるような経験を、少なくとも何度かしながら、走っている。
大型トラックや、キャリアカーに、トンネルの中で幅寄せされて、何100メートルか併走されて、生きた心地がしなかったという経験は、そこらじゅうで耳にする。
都市の交差点での恐怖の体験、出会い頭の車の飛び出し、など数え上げればきりがない。
バイクは、自動車から、無視されているか、敵視されている。
バイクを敵視したり、無視する自動車の側もまた、もっと別の大きな力から、無視されたり、道具扱いされているからなのかもしれない。

私たちは今、ひとが、安全に快適に移動する権利を、社会的に確立する時に生きているような気がする。
歩行者は、身の危険を感じることなしに、安全に歩くことが保障されていなければならない。
同じように、ベビーカーや車椅子は、もっと手厚く保護され、安全を保障するのでなければならない。
自動車は、自分が凶器になることのないよう、また自分の生命が脅かされることのないよう、その通行が保障されなければならない。
今はまだ全く、その安全も快適性も保障されていないバイクにとっても、その保障を確保されるのでなければならない。

環境の21世紀の交通政策とは、道路政策とは、高速移動よりも、大量輸送よりも、ゆっくりと移動することを尊重し、重要と考え、その安全と快適さを保証することが、第一義とならねばならない。
いったんは、超高速を手に入れた人類が、その結果として、進化すべき次の段階とは、実は、低速であることの大事さの認識と回帰であった。

都市の中心市街地の中にも、まだ歩道の整備されていない場所は多い。
まして、バイクレーンやバイク専用道の整備は、ようやく始まりかけているだけで、まだエピソードの域にも達していない。
このふたつの課題を、最重要課題として、自動車最優先から、低速移動の重視へとシフトを促進することが、実は、日本の未来にとって、必要不可欠な施策であることを確認しよう。

今日本では、過疎化、少子高齢化が、存亡にかかわる危機として言われて、何の対策も効果を上げないまま、もはや、用語としては風化し始めている。解決は無理、という認識が、一般的になりつつあると言ってもいいだろう。

歩行者やバイクのような、低速移動の重視は、そのあまりに大きな課題の解決への、何らかの手がかりになりうるのだろうか。
交通弱者と言われる、乳幼児やこどもたち、妊婦や高齢者、病弱者や障害者が保護され、大事にされるということは、地域社会のありかた、ひいては日本社会全体のありかたを、ゆっくりとではあっても確実に、変革する。ひとびとの意識も変わる。
こどもや高齢者や弱者に対する意識も、変化する。
こどもや高齢者の、社会の中での、存在意義が大きくなる。
社会的強者がよしとされる社会から、強者も弱者もひとつのコミュニティの回復の可能性が芽生える。
大都市であっても、農山村であっても、自動車の普及によって広域化するばかりだった傾向に歯止めがかかり、歩ける範囲、自転車で行ける範囲の、小さな、真のコミュニティの再生に向かい始める。
この動きは、衰退傾向にあった地方都市にとって、再生の、大きなきっかけになるかもしれない。
もともと地方の中小都市は、その地域の歴史と伝統と、独自の文化に支えられた、その地域の中心だった。何もかもが世界基準の大都市中心の流れの中で、その存在意義を失いかけていたのが、もういちど見直される契機となることは、疑う余地がない。
ゆっくり移動することで見えてくる地方地方のよさが、いっぱい詰まっているのが、そんな街なのだから、自動車や新幹線、飛行機での移動になじまないのは、言うまでもない。
大都市にはないよさが見直されれば、そして、弱者が手厚く遇される社会になれば、高齢者は生き生きしていき、こどもを生みたくもなる。
ちいさな地域社会が回復再生すれば、これまでのように多額の金銭を必要としない暮らしが、可能になる。
その傾向は、大都市よりも、中都市、中都市よりも小都市、それよりももっと農山村に、顕著になる。
とすれば、過疎化の問題にも、ひとつの光が差し込むことにもなる。

「風が吹くと、桶屋が儲かる」という、分かるような、わからないような話がある。
しかし、「自動車道の整備はほどほどにして、日本全国、歩道を整備して、バイク専用道を整備すれば、ライフスタイルが変わり、日本が変わり、過疎化、少子高齢化に歯止めがかかる。日本は、奇跡的に再生する。」は、もう少しわかりやすい。

やさしくて、ゆったりした町づくりが進めば、マナーの悪い、下品なライダーたちも、品のいいレディやジェントルマンに変わって行く。
彼らのマナーの悪さや品のなさは、私たちの生きている社会の、マナーの悪さや品のなさの、反映なのだから。