まとまらない空間 ─ 式場隆三郎著『二笑亭綺譚』より (岡 南)

 あなた自身が居心地の良い空間を、経済的な心配を全くすることなく、さらに住宅としての機能を考えることなく、造ることができるなら、どのような空間を、思い描くでしょうか。そして、あなたにとっての「心地良さ」とは何でしょうか。

 自身の感覚の好みを明確に表現した(住宅とは言いがたい)建築が、関東大震災で焼け野原になった数年後の、昭和6年から8年間、東京の下町、門前仲町の一角にありました。家主は渡辺金蔵といいます。彼は不遇な生い立ちに加え、教育も不十分だったにもかかわらず、代々足袋の仕立てを生業として商っていた裕福な商家の渡辺家に職人として奉公したのち、婿養子となり、まもなくして主人となりました。しかし33歳の時、洋風の雑貨などを扱う洋品小間物屋を始め、骨董のオルゴールや銅製の小置物、陶器類などをおいたハイカラな店にしますが、10年後の44歳の時には廃業をしてしまいます。その後は土地の管理を行いながら、芸事や書、そして茶道などの趣味の生活にのめりこんでいました。関東大震災後その金蔵が、自身の住宅をプロの設計者を交えず、思い通りの住まいを建築するために、まずは貨客船で世界を一周し、見聞を広めるのです。金蔵は建築に興味を抱いていたらしく、寄港地で歴史的建造物を見学していますが、それと同時にロンドンでは建築博物館、サンフランシスコではゴールデンゲートブリッジ(金門橋)や博物館など、当時既に工業的な発展を遂げた都市や、その建築物見学に時間を費やしています。

 帰国後、金蔵の新築計画は、どうも過去の姿に引きずられてしまったようで、せっかくの新築ができる機会だったにもかかわらず、震災直後に建てた鉄骨のバラックを内包させながら、全体的には既存の形を踏襲するように、部分的な保存や、改修、そして移動程度にとどめ、決して全体の構成から考え直すということはしないのです。昭和2年に着工し、書類上の竣工までは約5年の歳月を要していますが、金蔵自身が造作をしながら、住み続けていますから、実際には十余年の工期ともなります。途中金蔵は昭和4年ぐらいから、現場にひとり住み続けています。そこは家族にとっての住まいとはならず、妻の計らいで、金像がさびしくならないよう、子供たちは一人去り、二人去りと少しずつ千葉の親戚の家へ転居し、最後には女中だけが残っていたらしいのですが、それも長続きはせず、妻が金蔵のもとへ週に一、二回通い、子供たちも、時折遊びにきていたといいます。つまり金蔵は他の家族に、興味を示すことができない人だったようです。ちなみに金蔵の性格は、几帳面で自我が強く、無口で偏狭、さらに家族に対しては厳格で、自分の主張をあくまで通そうとする頑固な面があったようです。しかし金蔵が何ゆえ足袋職人として信頼を得ていたのかといえば、手先が器用で、大きな全体よりも眼のすぐ前にある小さな局所に集中できる能力と、几帳面に形を踏襲し続ける能力が、生かされてのことだったのではないでしょうか。商売変えの後にも、小さいものを扱うところからは脱していないのです。
 先ほどの工期の話しにもどりましょう。この家、決して大きいから、工期が長引いたわけではないのです。金蔵自身の素材へのこだわりがあり、同時に「全体をまとめる」という意識が当初よりなかったようで、一貫して場当たり的な施工が原因だったのです。その反面それぞれの局所においては、こだわりを気持よいほどに表現しています。一応建物概要を述べますが、かなり複雑なものですから、めんどうな方は、この数行を読み飛ばしても、十分この建築のおかしさは満喫できるでしょう。
 この建物は、東京の門前中町の、路面電車の通る通りに面して建っていました。敷地は南面の道路に面して、間口5.4m、南北の奥行きは約26.4mです。南側道路から8m奥まったところで東へ幅を7.2mほど(東西前幅は約14m)広がり、敷地東側の隣地境界線は、そのまま北へ伸びています。建物の形となると中央に中庭を配し、北川道路面には道路に沿うように倉庫があり、その一番東に裏門を配し、そこから中庭に続く路地があります。中庭を囲んで、北には倉庫、西には茶室・玄関・入り隅部分から中庭に張り出したところには、かまどと浴室があり、南にはホールが、西には厠が囲み、中庭の周囲をほぼ建物で囲み、浴室や茶室を周囲の眼から隔離し、私的空間を演出しているようです。

 中庭の南西に一坪ほど出っ張った、大きな両開きのガラス窓つきの、上部が吹き抜けになっている浴室は、この敷地の最も中心近くに位置します。金蔵は沐浴のこだわりがあったようで、和風の胸まで浸かる五右衛門風呂の気持ちよさと、海外で新たに発見した洋風のバスタブ形式の両方を楽しみたかったようで、ここでは金蔵なりの工夫が見られます。五右衛門風呂と洋風バスタブが窓前に埋め込まれ、特に洗い場を設けてはいませんが、五右衛門風呂上部と洋風バスタブ上部とが溝でつなげられ、五右衛門風呂へ入る時にあふれ出るお湯は、溝に導かれて隣のバスタブへ流れ、体を洗う時には既にバスタブは温められることになるのです。それまでの日本の浴室からは想像もできないほど明るく、開放的な空間になっています。朝日を浴びながらの入浴に大変こだわっていたと思わせるのは、世界一周の旅日記に、毎朝金蔵は、パイナップル缶2杯の潮をくみ、沐浴を欠かさなかったことを、わざわざ毎日記録にしているのです。水を浴びる感覚の心地良さを、何よりも大切にしたかった金蔵なのかもしれません。
 この家に住む他の家族への配慮などというものが一切ないのも、この家の特徴です。金蔵は幼い頃から、手を上げることが多かった厳しい父親だけに育てられています。金蔵にとり家族であっても「人」とは、緊張をもたらすものだったのかもしれません。父の視線から離れ、ひとり風呂に浸かっていることの心地良さは、何ものにも変えがたい時間だと思っていたのではないでしょうか。さらにこの風呂の窓を開けると、中庭の左向こうに、いきなり厠の入口の扉が見え、風呂の窓が、すりガラスなら問題はないのですが、透明ガラスの場合や開け放して風呂に入っている時には、家族がその窓前を通って厠に行くこともありますから、共に暮らす家族にとっては、たまったものではありません。

 金蔵は震災での恐怖からか、「鉄へのしがみつき」とも思えるほど鉄を偏愛します。鉄の機能を必要としない、例えば入口の引き戸の前脇に「雨よけ」と称し、地面に直径を接した半円形の鉄のオブジェのようなものを施し、また裏門のあるフェンスには、鉄パイプを縦に密に並べ、極めつきは畳の縁を鉄で作ってしまうのです。また屋根には当時は高価で、瓦よりはるかに軽いトタンを使用していることは、地震のことを考えると、納得できるのですが、必要以上の太い柱の上に、今度はぺらぺらトなタンを用いて、視覚的にはアンバランスを作ってしまいます。過去のバラックの記憶を引きずっているのでしょうか、丁寧に積み上げてつくった倉庫の外壁の赤レンガの壁も、トタンで覆い隠してしまいます。そして塗料にもこだわり、自身で塗料を混ぜ合わせることを趣味としていたようで、それに使っただろう90cmほどもある巨大なすりこぎや、相応のすり鉢も作らせています。塗料といえば漆も使い、鉄をも丁寧に、黒漆で塗っています。また一部の壁には防虫効果を期待してか、黒砂糖と除虫菊の粉末を混ぜたために、左官職人は、涙をこぼしながらの作業になったと言います。その他にも、登れないはしごを設置したり、ホールの一部の床に丸太を埋め転がし、間をモルタルで埋め込むような仕上げにしたり、さらに中庭に面した壁の木部の節穴に、ガラスをはめ込み、あたかも覗き見を楽しめるようにしたりという具合なのです。器用な金蔵は、神代杉の木箱を作っているのですが、その箱蓋の裏の目立たないところに凝った細工が施され、贈られた人は、蓋を開けて始めて金蔵の細やかさを感じ取ることになるのです。その逆に大きいもの、重たいもの、厚さなどにも、こだわりがありました。例えば巨大な墓碑を作ったり、子供たちには、ハムの厚さが数㎝といった巨大なサンドイッチを作ったり、1階の三畳の茶室の奥の床には、子息の記憶では「ナイアガラ瀑布」の大きな写真を飾るなどしていたようです。常識にこだわらない、妙にユーモラスなところもあるのです。その他にもいろいろ妙なことは続きますが、詳細をお知りになりたい方は、ぜひ式場隆三郎・他著『二笑亭綺譚』を手にとっていただきたいと思います。

 もとよりこだわりの強い金蔵は、関東大震災という災害により、一層不安感を強め、強迫的な、しかし自分に正直な空間を作ったのかもしれません。壊れることも燃えることもない鉄にしがみつき、海外で発見したものを取り入れ、自分だけの心地良さを満喫し、趣味の茶道に打ち込めることを目的とした空間は、住宅でも別荘でもなく、金蔵の根深いものの表現となっているように思われます。この空間を実測した著名な建築家の谷口吉郎氏は、実測後「しまいには鼻血でも出て来そうになって来た。」と述べています。世に紹介される優れた建築は数々あれど、日本の近代にあって最も優れた建築家に、このような表現をされた建築について描いた書は、他にはありません。
 昭和11年、金蔵は精神科病院へ入院をしますが、器用な手先でその後も刺繍や、自身の着物、布団などを作り、南画の練習をするなど、常に手を使い、作り続けることをしていたといいます。

(おかみなみ / 認知デザイン)


参考:式場隆三郎、藤森照信、赤瀬川原平、岸 武臣、式場隆成著
『二笑亭綺譚』筑摩書房、1993、
著者の式場隆三郎氏は精神科医でありながら、文化芸術的にも造詣が深く、
ゴッホ研究や、画家山下清のプロデューサーとして、また当時の民芸運動の柳宗  
悦などとも親交がありました。
*図版は、式場隆三郎・他著『二笑亭綺譚』筑摩書房、1993、P78の改変です。

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  • 岡南著『天才と発達障害―映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』(講談社、2010)

視覚優位・聴覚優位といった誰にでもある認知の偏りを生かし「個人が幸せになるために」書かれた本です。読字障害(ディスレクシア)でありながら、視覚を生かし4次元思考するガウディ。聴覚を生かし児童文学の草分けでありながら、吃音障害、人の顔や表情を見ることができない相貌失認のルイス・キャロル。個人の認知特徴を生かし「やりがい」をもって生きることについて考える本です。

  • 杉山登志郎・岡南・小倉正義著『ギフテッド―天才を育てる』(学研教育出版、2009)

能力の谷と峰を持つ子どもたちは、認知特性の配慮と適切な教育により、その才能を開花させることができます。ギフテッドの教育の在り方、才能の見つけ方や伸ばし方を解説し、一人ひとりのニーズにこたえる特別支援教育の在り方を提示しています。どの子どもの特性を伸ばす為にも、ヒントになることでしょう。

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