山里の正月は、真っ青な水菜のシャキシャキと小気味よきさまに、格別気どりもなく、明けそむる東の空から、衿を正す冷気とともに新たまる。
めでたさは、外に暮らす身内が、元気な顔を見せてくれることだ。
町の嫁方に繰り込んで、一騒ぎしてから、奥山の我が家に戻って来る。どちらの家も爺婆セットだから、大歓迎する。
そんなこんなで、彼らは連日のんびりしているのに、食べづめで、胃袋は満タンの状態だし、昔ながらの「おせち料理」は好みではない。
我が家では、自分達の為のお膾やお煮〆などを少々用意しておけば良い。彼らの持参する食材を、適宜、簡単に調理して食べるという手軽さ。我が家のお嫁さんは有難い。
只今のところ、子供向けの栗・むかご・りんご・小豆餡の餅を、どんと積んでおけば喜んでくれる嬉しさ。
おしゃべり組と読書組に分かれ、呑むのは爺どのが一手に引き受けてくれる。
戦争が無いと、こんなにも穏やかだ。毎日毎日、世界の何処かで殺し合っている事が、今の日本に生きていると嘘みたいである。
こんな、ささやかな贅沢が出来るのも平和のおかげと、心から有難い。
その昔、禁裏、御哀微の長かりし時「禁中には正月にも雑煮なし、ひし花びらを焼き味噌にて煮たる牛蒡を食ふ。また雉焼と称して豆腐に塩を付けて焼きそれの二・三片を茶碗に入れ、そこへ燗をした酒を八分目ほど注いで、吸物にも肴にもする事なり」とあります。
その御逼塞のさまには言葉も出ませんが、庶民の我らも、半世紀前に命からがら味わったことでした。