十二歳頃迄の私は、すぐ病気をしたがる発育不全のチビッ子であった。小さい事には慣れていたが、女学生の時の寝巻が、付け紐の四ツ身の着物であった事から、其の後、大阪陸軍工廠へ学徒動員された時、寮生仲間に大いに笑われた記憶が有る。
そんな時代、松山城のお堀端にでんと構えた白亜の県立病院には、紺の股引・腹掛の粋な車夫と人力車が控えていた。
「また幸っちゃんかな」と、忙しい母にぼやかれながら、お定まりの被布をチョコンと着せられ、家の表に待ってくれている人力車に、母の膝にすがって乗り込むと、待ちくたびれていた車夫が二人の膝へ、真っ赤い毛布を掛けてくれる。それでもう充分病人らしい心地になった。
その日だけは、母が幼い弟妹を放っぽり出し、長女の私をかまってくれるのが嬉しく照れくさくて、被布の胸もとの飾り紐をわざと引っぱったりして、母に叱られた。此の照れ癖を今に引っ張って、損ばかりしている。
扨扨、車夫のお爺さんは(当時の私には、男は殆ど爺さんに見えた様だ)力持ちやなァ、くたびれるやろナと、子供心に案じたりもした。と言っても、まともに歩けば、子供の足で十分とはかからぬ距離であったが。人力車の幌の中が、まるでお伽の国であった様な心地が今も懐かしい。
其の人力車が、レトロ気分の乗り物として、いで湯の町に復活し、道後温泉本館前の名物になっているという。坊っちゃんコースは二十分間三千円。石手寺コースは、六十分間六千円で車夫のガイド付きとか。私も一遍、乗ってみようと思っている。
扨、その病院の思い出を一つ。あれは同級生の中村泰子さん(何故、半世紀も経って名前を憶えているのか。今日の事さえ忘れたりしているのに)が、顔中を白い膏薬で塗りこめ、その上から繃帯をぐるぐる巻きにして、目だけ出していたが、その睫毛にも膏薬が、べったり付いている始末で気の毒に堪えない。母子共にげっそりしていた。
或る時、病院の待合室で、その悲惨な顔を見つめていた人が声をひそめて言った。
「そんなもん医者へ来んでも、数珠玉を煎じて飲めば治るぞなもし」と。喜んだ中村さん親子は、当時は方々に有った河原に素っ飛んで行き、日頃はお手玉に入れたり繋げて首飾りにしたりの数珠玉を、しっかり取り集めて来るや煎じて飲み続けたそうな。
其の後、彼女は千疣が治ったのみならず呆気にとられる程、色白の美しい乙女に成長してしまった。
あの時、私も数珠玉を煎じて飲めば良かったのにと後悔している。色の白いは七難かくすという諺が有ったのに。