瀬戸内海の生口島から 被災地へ、
もぎたてのフルーツを届けました
レポート by 夢千年の暮らしPRODUCE & DESIGN
[作手~広島(生口島)~作手~宮城(南三陸・気仙沼)~作手間、全行程 2,600km]
2011年04月19日
瀬戸内海に浮かぶ生口島(広島県しまなみ街道)へ、6人でトラックと乗用車で500km陸路を走りました。
ミカン畑に実った無農薬のハッサクと甘夏のすべてを提供してくださった生口島のミカン農家の小林さん。
生口島に到着してすぐ、朝から晩まで収穫作業。 瀬戸内海の海風と、太陽と、海の反射光を浴びた柑橘類は格別な美味しさ。
収穫したかんきつ類をトラックに積み、その日のうちに500km作手への復路を帰ります。
作手に帰着したのは夜10時過ぎ。
荷物を積み替え、2時間後には宮城へ向け、また出発です。
●午前1時、宮城県へ向けて出発
昨日広島で摘んだ甘夏とハッサクをドッサリ積んで、
被災地の宮城県南三陸町へ…!!
東京経由で東北自動車道を夜通し走りました。
●06:55AM
道中 東北自動車道にて。 道路は地震でボコボコなのでスピードをあげると車が飛び上がります。スピードが出ません。
自衛隊やパトカー、被災地支援車を多く見掛けます。
●11:43AM 宮城県登米市役所 中田総合庁舎
なんとか午前中には、約束をとってあった登米市の中田総合庁舎へ到着しました。
今回の大震災によって、急きょ、”災害対策本部窓口”を兼ねることになったという、産業経済部にて。
部長さんにご挨拶してきました。
●避難所その1 登米市登米町「登米公民館」
避難所「登米公民館」にて、ミカンをおろします。 (写真右)登米市役所の職員さんと。
ここでは南三陸から来た100人以上の被災者が体育館の床の上で暮らしています。
玄関へみかんをおろしたとたん、「うわぁ~うれしい!! フレッシュな食べ物を見るのは久しぶり!!」という声が。左端の方は南三陸のある地域の区長さん。なんとお父さまの納骨が終わった翌日、津波でご自宅が全壊されたのだそうです。
●避難所その2登米市東和町、(旧)鱒淵小学校。
南三陸の隣町の東和町。廃校になった校舎が、非難所として活用されています。南三陸から来た100人以上の方が避難生活をしています。
玄関を入るとすぐ「がんばろう南三陸!!」の横断幕が。
教室の窓には目隠しをして、各部屋には被災された方たちが
10人~20人ずつ入って、避難所生活をしています。
●15:31PM 南三陸役場 仮設庁舎
市役所の庁舎も職員もなにもかも流された南三陸町では当然、市役所としての機能が成り立ちません。
ボランティアの手によって仮設庁舎を設立したのだそうです。
隣には全国各地からのボランティアで成り立つ”支援センター”があり、支援物資の受付所になっています。
支援物資を保管する南三陸ベイサイドアリーナ。(巨大な体育館) 同じ敷地内に仮設庁舎、避難所、物資保管所、死体安置所があり、スペースはいくらあっても足りないとか。
この施設のスタッフには、南三陸の住民はほとんどいません。 みんな、全国各地から集まったボランティアです。 町全体が壊滅状態、住民のほとんどが死亡か行方不明か、避難生活だからです。
次々と支援物資が運び込まれてくる中でも、ひときわ目立つかんきつ類。 フルーツや野菜など生ものは保存がきかないため遠慮している関係もあり、物資としてくることはほとんどないそうですが、実はこれが一番の人気物資で、とても喜ばれるのだそうです。 入荷したら、その日のうちに無くなるそうです。
私たちのメッセージを託したチラシを、ミカンの箱の中に1枚ずつ入れておきました。
自衛隊やボランティアスタッフの方が、箱から出して倉庫の隅で読んでいました。
●18:35PM 夕方から、志津川町、気仙沼市、大船渡の津波被害跡を視察。
地震、津波、火災…この世とは思えない光景が待っていました。
鉄骨・鉄筋コンクリートの建物はこのありさまです。
仙台銀行。
津波に浮かんで、どこからか流れ着いた家も多数あり、三陸鉄道もぐちゃぐちゃでした。 この日はここで陽が暮れたので、そのまま帰路に着きました。東北道を夜通し運転です。
2011年04月20日 06:18AM 作手へ帰着
作手~広島(生口島)~作手~宮城(南三陸・気仙沼)~作手
2.5日間、全行程2600km無事帰ってきました!