日本の暮らしの中には、思いもかけない「合理性」を見出すことができます。その代表的なものとして、日本の特に江戸時代では、着るものから都市計画までもが、同じモデュール(module)で作られていたという、おそらく他国にはない文化がありました。モデュールとは、人体寸法を元にした単位のことで、特に寸・尺・間は、メートル法が施行された1885年以後も、建築界や呉服関係者の間で使われています。人体寸法が基準になっていますから、人々の身長が伸びた現在では、暮らしに即しているとは言い難いのですが、着目すべきはそういった「合理性」や「発想」なのです。
寸・尺・間の単位を今の単位に置き換えると、まず一寸は約3.03㎝で、昔話でご存知の「一寸法師」の身長にたとえられますが、約3㎝ということになります。一寸の10倍が尺で、一尺は約30.3㎝になります。さらにその尺を6倍すると一間となり、一間は約1.818mとなります。地域により異なりますが、今日では大まかに畳の長辺の長さとして、一般的な表現となっています。
例えば「京の町屋は三間でできている」といわれます。この場合の一間とは、柱の内のり寸法をいい、柱の太さを入れずに表現をしていました。当時の京での一間は六尺五寸ですが、江戸では六尺、その他に中京間もあり、地域差がありました。しかし同じ地域であれば、畳は同じサイズで、使い回すことができたというわけです。京の三間とは、道路に面して間口が約6m30㎝で建てられた町屋ということになります。その三間のうちの端の一間は土間として、通り庭の空間になり奥の中庭に続いていました。
こうして作られた住宅の室内では、柱と柱の間を一間か二間の引き違いの襖や障子が、その用途により、時には続き間となるようしつらえています。襖の性格は、出入り口の建具であると同時に、部屋と部屋のしきり壁でもあり、そこに描かれた絵画や版木によるプリント柄は、装飾ともなります。板戸や漆塗りの戸もありましたが、中には大阪障子といい、そのたぐいの一つは、一枚の戸枠の中が横桟により上下に5等分され、そこへさらに小枠がセットされ、冬には障子が小枠に貼られたものをはめ込み、夏には風通しのよい簾が貼られた小枠をはめこむことができました。また障子と簾の小枠の両方を使うと、視線を遮りながら同時に通風も可能で、季節の変化や使い勝手により、なんとも融通がきく建具も使われていました。
モデュールが同じだということは、畳にみるように「使いまわし」ができるということです。民家の解体時、ひき違い戸や襖や障子といった建具だけを他の家で使うことで、良いものを長く使い続けることもでき、良い職人仕事も継承することができました。また柱や梁といった太い部材は貴重ですから、解体したのち、再び新たな家で使われることも、民家では当たり前にありました。その場合には太い部材は、なるべく太いまま使うことで、より長く大切に使われました。
さてこのような空間で暮らす人々が着ていたきものはといえば、幅が一尺で30.3㎝の反物から作られていました。ひとり分の仕立て長さがロール状に織られ、呉服商が腕の長さなどの部分的な寸法合わせの後、仕立てられていましたが、簡単な裏のない単(ひとえ)のきものや浴衣などは、家庭での女性の針仕事になっていました。(身長差は、着付け時の帯下のおはしょりで、着る人が時々に合わせ調整をしていました。)
反物はきものとして着古した後、解いて元の布幅を横に3枚剥ぎ合わせ、綿を入れ敷き布団(ふとん)にしました。布団の収納はといえば、一間の押し入れなどですが、反物の3枚から縫い代と綿の厚みをさし引くと、一間の幅の押し入れに、横二列に並ぶサイズとなります。これはまるで寸法のマジックのようですが、先述したように一尺の六倍が丁度一間ですから、寸法的にはリンクできるのです。
きものの着回しは社会的に当たり前のことで、江戸時代の街には、古着屋が多くありました。また家々では、一度きものとして仕立てられたものも、解いて布としての使い回しをすることも、日常のことでした。きものは、生地を人体の凹凸に合わせ作るのではなく、織ったままの直線を着こなすのですから、人が反物の作りやすさに寄り添っているという面があります。先ほどの木材の例と同様、反物を細かく切りきざんで加工するのではなく、なるべく反物の広い面積の状態で長く使いながら、徐々に小さなものへ縫いなおしていきます。きもののリフォーム例としては、布団以外にも女性が日常きものを汚れから守るために身につける水屋エプロン、防寒具のはんてんや袋もの、あるいは覆い(カバー)などにも仕立てなおし、最後は布の繊維もなえたところで、布巾や雑巾となりました。
時には絹の上質なきものは、染め替えをすることもありました。きものを解き、分解して色柄を一度おとし、再度染め替え、またきものとして仕立てるといった生地を大切に使うことの工夫も当たり前にありました。さらに着る人の年齢に合わせ、薄い色のきものを、色抜きをせずに色を染め加え、深い色を装うということもしていたようです。こういった方法は、汚れが取れないきものを、生かすこともできました。そのために人の手がかかり、染めの技術も発達したのです。何よりも最後まで使い切るということで、廃棄量の削減にもなったわけです。もっとも今と違い、自然素材だけでしたから、すべて自然に戻っていたわけです。
モデュールの話からは、少しそれますが、自然に戻るものと言えば、こんなものもありました。それは柱と柱の間を壁にする場合に用いた土壁のことです。良質の土に恵まれた地域の民家の多くは、土壁で仕上げられていました。竹の小舞で下地を組み、そこへ藁(わら)やすさをつなぎとして混入した土を塗りつけます。
一説にこの土壁は、地震の際に建物の歪みを吸収し、ひび割れが生じることで、かえって建物全体が一瞬につぶされる(破壊)ことを防ぐとともに、中にいる人を安全に守るためのショックアブソーバー的な役割を果たすことも言われています。土壁は廃棄するとすべて自然にもどり、あるいは他の土壁として再利用もされていました。
さて今度は、先ほどのきものをしまう家具についても、考えてみましょう。こちらもモデュールが意識され、建築と同様、箪笥(たんす)なども三尺が基準になっていました。箪笥は二つ重ねや三つ重ねに置かれ、移動する時は、側面についている金具の握り手を使いますが、重ね置く時には、それが上下を固定するジョイントにもなります。あたかもユニット家具のようです。
調度品としては、精進料理や和食料理を畳の間でいただくための銘々善などがあります。これらは什器に食事を盛り付けたまま積み重ねて運ぶことができ、配膳や収納に便利なものです。今日でもそば屋やすしやの器も、重ねて運んでいます。和室で使われる座布団も、重ねて収納します。つまりこれらはスタッキングの文化ということになります。
日本の家具の歴史を研究されている小泉和子先生は自著で、欧米の文化でシステムファニチャーやユニット家具が生まれたのは、実は近年になってのことで、日本では既に日本の気候風土にあった知恵が、暮らしの利便性を高めていたことを述べています。注1)
日本人の生み出したモデュールを用いた暮らしとは、地域の産物で、しかも誰でもが作れ、さらに持続の可能性を旨とし、廃棄する時には自然に戻るという、合理性が秘められていました。このような工夫に満ち溢れた文化を作りえた知恵が、既に日本にはあります。日本特有の自然環境や、人々の持つ器用さ(技術力)に支えられた、真似ごとではない独自の発想にこそ、この国の未来をゆだねることができるのではないでしょうか。
(おか みなみ / 認知デザイン)
注1) 小泉和子著 『室内と家具の歴史』中央公論新社、1995
日本古来からの家具や道具たちが、どのように暮らしとともにあったのか、また
それらをつくった技術や社会背景について、時代性とともに理解することができ
ます。また多くの資料や写真が、興味を深めてくれるでしょう。
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- 岡南著『天才と発達障害―映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』
(講談社、2010)
視覚優位・聴覚優位といった誰にでもある認知の偏りを生かし「個人が幸せ
になるために」書かれた本です。読字障害(ディスレクシア)でありながら、視覚
を生かし4次元思考するガウディ。聴覚を生かし児童文学の草分けでありながら、
吃音障害、人の顔や表情を見ることができない相貌失認のルイス・キャロル。個人
が長所を生かし「やりがい」をもって生きることについて考える本です。
- 杉山登志郎・岡南・小倉正義著『ギフテッド―天才を育てる』(学研教育出版、2009)
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