今から始める
「原発が要らない、
希望のある暮らし」
想像もしていなかったことはいつも、突然起きます。
2011年3月11日のことは、誰も忘れません。
あんな大きな地震が起きて、あんなすさまじい水が押し寄せてくるなんて、家も車も暮らしも、いのちも、一瞬に押し流してしまうなんて、誰が想像できたでしょう。
でもそれは現実でした。
耐え難い悲しみや苦しみが、信じられないほど多くのひとびとの日常になりました。
そして現実は、もっと過酷な運命と試練を、私たちに要求しました。
福島の海岸にずらりと並んで威容を誇った原発は、「原発は安全で、クリーンな、未来のエネルギー」の触れ込みでやってきました。
最後まで反対した人たちはありましたが、福島県民のほとんどは、多額のおカネや見返りとともに、それを信じました。
原発の安全神話は、タンポポの綿毛ほどの重さもありませんでした。
軽やかに語られる、重たいウソのつけは、これから日本人みんなが背負うことになりました。
あまりに大きく重たい責任は、国民みんなの責任だと言って、うやむやにする悪い癖は、もうやめなくてはなりません。
ウソだとわかっていても、一縷の望みを信じる、私たちの悪い習慣も、改めなければなりません。
私たちは、歴史の中で経験してきた、数多くの失敗や過ちから学ばなくてはなりません。
自分たちに対してだけでなく、こどもたちや孫たちに対しても、はるかな未来に対しても、責任を負えないことは、決してしてはならないと、心に誓いましょう。
そしてその私たちの決意と覚悟が、私たちの未来に希望をもたらす唯一の手がかりだと、心に刻みましょう。
破滅に向かうしかないとさえ思える今、それが持続に向かうための、新しいエネルギーです。
原発よりも、はるかに大きな、人類の未来に向かうエネルギーです。
今すぐ、日本中の原発はもとより、世界中の原発の運転を停止して、廃棄にむけた一歩を踏み出しましょう。
そして、「原発は要らない !!」と力強く意思表示しましょう。
私たちの毎日の暮らしの日常から、原発のエネルギーが不要だと、語りかけましょう。
さぁ今すぐ、原発の要らない暮らしを始めましょう。
そんな難しいことではありません。
つい25年か、30年くらい前まで、原発はなかったのですから。
今、30代か40代以上の人なら、25年か30年位前のことを、思い出してみてください。
大型店舗がそこら中にあって、そこにはモノが溢れていて、モノに対する渇望をいやでも高めるようなことは、その頃はまだ、それほどでもありませんでした。
持っている人より、持っていないひとのほうが多かったのですから、持っていないからといって、そんなに不幸せではありませんでした。
山でも川でも原っぱでも、どこでも遊び場でした。季節のおやつが見つかりました。
喉が渇けば、小川の水が渇きを癒してくれました。
遊び相手になる生きものたちが、溢れていました。
学年を超えて、仲間がありました。ガキ大将についていきながら、リーダーシップとはどんなことか学びました。強い力といたわる気持ちの両立を体得していきました。
大都会のど真ん中はともかくとして、それ以外の場所では、大なり小なり、それが普通でした。
今の時代のように、家の手伝いなんかしなくていいから勉強しなさいと言われるかわりに、勉強なんかする暇があったら家の手伝いをしなさいと言われるのは、ごく一般的でした。
それはそうです。今みたいに、お金さえ払えばという条件はつきますが、なんでもかでも、スイッチひとつで自動的にすんでしまうのとは違って、お風呂を沸かしたり、料理したり、田舎なら水を汲んだり、農作物をつくったり、薪を山に取りに行ったり、動物たちの世話をしたり、遊ぶ暇もないほどでした。
都会の片隅でも、家の庭で、野菜を栽培したりしているのは、ごくふつうでした。
井戸もそこここにありました。
軒先に、薪を高く積み上げてある風景は、ごくあたりまえでした。
どこの家にも、ひと通りの道具は道具箱に入っていて、家の補修や手入れくらいは、自分でやるのが当然と、みんな思っていました。
田舎では、水も、家を建てることも、食べものも、燃料も、みんな自分でやってきました。原則として、誰かにやってもらうということはなく、屋根の葺き替えや、家の新築のような大きな工事や、田植えとか稲刈りとか、人数を必要とするときには、近所のひとたちの相互共助組織としての「結い」が機能していました。
とくに、山の村は、ほとんど完全に自立して、何もかもを自給的に、他の力に頼ることのない自律的な暮らしが成り立っていました。
都会に近づくにつれ、この自立性、自給力、自律性は、幾分弱まり、貨幣経済の占める割合が大きくなっていきました。
私たち「山の力」では、上に書いた「自立性」、「自給力」、「自律性」と、「協働性」の回復再生を、広く呼びかけたいと思います。
まず何はともあれ、買う以外に方法がないと考えてきた、「食べもの」、「エネルギー」「水」、の自給力を高めることを目標にしましょう。
今回問題になっている電気エネルギーについては、原子力発電による供給量が、全体の約三分の一と言われていますから、何はともあれ、電気の消費量を三分の一減らす努力をしてみましょう。
要らない電灯を、こまめに消す。
電気器具を常にスタンバイ状態にしておくことをやめる。
テレビやパソコンを点けっぱなしにしておかない。
撤去できそうな電気器具(電気炊飯器、電子レンジ、オール電化住宅、電磁調理器具などなど)を、撤去する。
これだけでもうすでに、上の目標は楽々とクリアしているはずです。
そうです。そんなに困難なことではありません。
そして、原子力発電は要らない、と言いましょう。
次には、自家発電に挑戦です。
アメリカでは、光合成の原理を応用した、とても効率のいい、しかも小型の発電機が開発されていて、インドの巨大企業の手で、実用化と企業化に向けた最後の段階に入ったと報告されています。
小型の水力発電機も発売されていますし、小型で効率がよく、低周波健康障害を起こしにくい風力発電装置もできています。
もちろん、バイオマス発電も有効です。
誰でも、どれでも選択できるというわけにはいかないかもしれませんが、可能性は広がっていると言えるでしょう。
燃料についても、化石燃料や原子力エネルギーに、全て頼るのではなく、日本の国土の大半が山林だということに、目を向けてみてください。
今流行の薪ストーブというのも、大いにお勧めですが、たいへん効率のいい薪ボイラができていることにも、注目してください。
給湯だけでなく、温水暖房が可能です。ぽかぽかして、いい気持ちです。試す値打ちがあります。
問題は、薪の供給ですが、今全国的に「木の駅」プロジェクトというのが、広がっています。今後、大量の間伐材が、途絶えることなく、 比較的安価に供給される可能性が高まっています。
食事の支度をしたりするのも、キッチンストーブもあれば、かまどで炊いたごはんや、石窯で焼いたピザのおいしさを思い出せば、それもありかと気持ちが傾きます。
実際に使っている場面を体験してみましょう。
飲料水の自給は、山では比較的簡単ですが、都市水道に100%頼っている都会では、それほど簡単ではないかもしれません。
少し前までは、あちこちの家に井戸がありました。
今ではたいてい使わなくなって、ふたがしてあったり、水が枯れてしまっていたりします。
非常用の水源としても貴重ですから、井戸のある場所の調査から始めましょう。
地震などの災害が予想される町などでは、すでに調査済みで、地図に落とし込んである町もあります。
いざというときのために、新しく掘るというのも、考慮していいことでしょう。
水質が問題になる可能性はありますから、事前にいろいろと聞き取りしたりの調査は必要です。
また、池や沼、小川や水路などは、都市にとって大事な非常用用水です。
暗渠になっているものは、明渠に戻すよう要請しましょう。
池や沼の埋め立てには、賛成できません。
そして、池や沼、川や水路の周囲や周辺の森は、都市住民にとっては、とても大事です。生物多様性を保全するためにも、防災上も、都市住民の憩いの場としても、大気汚染の防止からも、とても大切です。
食料の自給は、できる範囲で、それぞれが取り組むのが原則です。
しかし、都市住民にとっては、それほど簡単ではありませんが、ベランダ園芸などに挑戦してみることで、食料の自給に関心を深く持てるようになったり、食の安全や、ほんとうのおいしさに、より強い関心を持つことができるでしょう。
これが出発点になります。
食材を買うときに、何を買うかに、これまで以上の関心が芽生えてくるに違いありません。
そして、ほんとうに安全でおいしいものを、実際につくっている人たちとの交流が始まることでしょう。このつながりこそが、とても大切です。
都市住民のみなさんは、そのようなやりかたで、実際につくっている人たちを支えていってほしいのです。そしてひとりでも多くの人がそうすることによって、より多くのひとが、食料を生産するようになり、田んぼや畑の面積も増えていくことになるでしょう。
農の現場に足を運んでください。自分でも、手を出してみてください。
そして自分の、家族の、食を守ろうとする自分の行為が、山を守り、水を守り、日本の国土を守り、生命や財産を守り、生物多様性を保全することに直結していることを、実感してください。
それをこどもたちにも、伝えてください。
そして食料自給のもうひとつは、できるだけ外食を避けることです。
今日本には、外国から毎日大量の食料が、安く輸入されています。
外食産業の多くは、この食材に頼って、比較的安い食事を提供することに、しのぎを削っています。
日本には、まだまだ遊休農地があります。耕作可能用地もあります。
担い手があり、需要さえあれば、もっと安全でおいしい食料をつくることは可能です。
「簡単、迅速、大量、便利」の毎日に慣れてしまった今となっては、すぐにはそこから完全に抜け出すのは難しいのですが、今回の原発事故を経験したからには、事情は少し違ってきました。
私たちは、あまりに「有り余る、コトやモノ」に慣れすぎました。
それが当たり前になってしまいました。こどもたちには、それ以外の世界の経験さえありません。
あの地震や津波の前に、何かするすべも持たず、予知さえできず、津波の大きささえわからず、ましてあの制御不可能な原発事故を前にして何もできない私たちは、今こそ、技術や科学の力で、自然を制御したりすることなどできはしないことを、思い知らされました。
私たちは、もう少し謙虚であるべきなのでしょう。
素直でなければならないのでしょう。
怠惰であってはならないのでしょう。
生きるために、もう少し多くの時間を割くべきだと、教えられたのではないでしょうか。
自然の力を畏れ、敬い、信じることを、教えられたのではないでしょうか。
山は私たちに、水をもたらし、きれいな大気を与え、土を供給します。もちろん、木もです。
私たちの生命を養う全てのものは、山からやって来ます。
もっと山に依拠する暮らしにシフトしましょう。
今回のたいへんな出来事が、破滅に向かわないで、新たな再生に向かうために、山の力を信じましょう。
そして、ひとりでも多くの人々が、なんらかのしかたで、山の守り手、水の守り手になるための一歩を踏み出しましょう。