お遍路さん

 菜の花が咲いた。晴れわたる空の下、金粉まみれの菜の花畠を見ているとついつい、頃は良し、お遍土に(と伊予生まれの者は言う)でようか今年こそ、と思ってしまう。

 お大師さんと同行二人の旅をさせて頂く。何の為などと理屈はいらない。弘法大師の巡錫し給いし跡を、一歩一歩お尋ねしてゆく。大地を踏みしめ、地のエネルギーを頂きながら。大師遍照金剛に南無しながら只管に、天を仰ぎ地をみつめて歩み続ける。三年前、歩いて歩いて本四国を百回以上巡った人の納め札を頂いた。その美しい錦の札は小さいが、そこ迄してしまう人の、行と業の重みが私の掌にずんと来た。

 私なんかとてもとても、バスで十五日間のに便乗したい位の不信心だから、四国遍路にいまだ御縁が無い。とは言うものの、草田男の「腰いたく曲がれる遍路深拝み」にならぬうちにとは思ってはいる。
 昔、四国の山野は、修業者の跋渉していたはずの土地である。都あたりの人からは他界であったろう。海中の一国が行場とは嬉しいではないか。然し、北の恐山のごとく死霊の集まる地とはされていない分、四国八十八ケ所巡拝は明るいイメージが有って、現代の人は暇と金が有れば、別に不幸でなくても、己が業を察知していなくともすいすいとやって来る。(あ、私はもうすっかり三河人の筈だから、此処は、出かけて行くと言い替えねばなるまい)先へ逝った愛しい人たちの供養にと歩けば、つい径の小草も湿ってしまう。
 だが、罪障消滅なんて言うまいぞ。測り知れない人間の業が、一寸やそっと歩いた位で消えたりなんぞするものか。赤ん坊が立ち上がり、一足歩めたのを手放しで喜ぶように、歩きは人間本来の幸せな姿である。生きる姿勢なのだ。

 最近は車社会となって私達は大地に立つ事を忘れていた。それに気付いた賢い人の順に、遍路していると思えば良い。とは思えど行程約一二〇〇キロ、歩けば四十余日、宗派を問わず男女を嫌わずと言うものの、雨風の日、灼けつく日を、てくてく、つくつく歩き歩いて、あの細い坂道を登り下りするのは大変だ。だから海に面した雄渾な景色や、昔の名残の心こもるお接待などがとても嬉しく有難いことになる。

 そもそも遍路の起こりは、昔むかし伊予国浮穴郡荏原郷(いよ国うけな郡えばらのさと)に、衛門三郎という強欲非道な長者が居た。
 ある夏の事、この男が昼寝をしている邸へ弘法大師が托鉢に来られた。快い眠りを覚まされた三郎は大立腹。「この乞食坊主めッ。去れッ」と怒鳴ったが、大師は尚も詩経を続けて居られた。これを見た三郎は大師の杖を引ったくり、おん手の鉢をバシッと打ったから、鉢はたまらず八つに割れた。

 大師は、「非道な心をあ改めぬと不幸を招くぞ」と呟き乍ら去ってゆかれた。
 やがて、三郎の八人の子供が次次と死んでしまう事となる。己の罪と業を悟った三郎は、お詫びを申し上げるべく、大師のお姿を求めて四国巡礼の旅に出た。もう無我夢中で。
 それから二十何回目かの巡礼を続け三郎は、老い衰えた身体を励ましつつ漸く、十二番焼山寺に辿りついた。命終は近い、一目、あの僧に逢って懺悔しなければ、死ぬにも死ねない。其処へ、忽然と大師が現れた。
 「三郎よ、お前の罪はゆるされた、来世は河野一族の子として生まれるであろう」と予言された。三郎は泪を流し、大師より頂いた小石と経文一巻を手に、大師を伏し拝みつつ往生したという。

 やがて城主に子が生まれたが手を開かぬ。安養寺に祈念したところ、開いた掌の中に、衛門三郎再来と書かれた小石があった。
 そこで此の石を納め、寺名を石手寺と改めたそうな。
 六十余年前、母に連れられて参詣した頃の石手寺は、見渡す限りみどりの田園で、遠くから其の塔頭を拝むことが出来、子供心にもまこと霊場の思いがした。その分、野中の一本道が、クレヨン描きの線の如く先へ先へと伸びてゆく様に遠かった。
 寺の境内は、豊かな美しい水の流れる川に囲まれていて、子供たちが跼んで見たくなる程の奇麗な水藻がさらさらと揺れていた。
 門前に一軒きりの茶店があった様に思う。小さいおばあさんが、これまた小さな餅を金網にのせて、ひっそりと焼いて居た。子供心をそそる、赤や黄の小瓶のニッキ水なども並べて有ったのに、乳母車を押している母に、私はそれらを買ってもらった記憶が無い。石手の名代の焼餅を欲しいような顔をしたなら、忽ち母に睨まれるので、見ない様にチョコチョコ前へ進む。何しろ参道の左右には、私達が『お貰いさん』と呼んでいた乞食が、参詣者の寄捨を目当に、整然と一列縦隊にびっしり坐り込んでいたものだから、乳母車を押す母は早くそこを通り抜けたかったのであろう。

 明治二十八年九月二十日、正岡子規は柳原極堂と二人で此の石手寺を散策している。この四ケ月前、従軍記者であった子規は、清国からの帰途に船中で喀血して居る。上陸後、直ちに入院治療し小康を得て松山に帰省したばかりであった。それでも連日、地元の同好と句会をしていたというのだから、親に貰った身体を、まこと粗末にしたものだ、叱ってやりたい。この五ケ月後にはもう、臥褥の人となるのである。

 この時、子規は石手寺の『おみくじ』二十四番凶を引き当てたと言われている。『病い長びかん命にさわりなし』であったとか。命さわりなしで此のあと七年生きのび、畢生の事業を成した。子規大先生と称うる外はない。
 石手寺にお遍土なさる方は、この句碑をごらん下さい。

  身の上や御鬮を引けば秋の風    子規
  南無大師石手の寺よ稲の花     子規